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★アラフォーオッサンの冒険者ライフ ~戦乙女に出会って人生大逆転~(完)

 空から勢いよく降りてきたその黒髪の少女は、固まって動けない俺たちとベヒモスとの間を隔てるように優雅に立つ。


 彼女は見たこともない装束を纏っていた。形だけ見れば貴族の子弟が通う学院とやらの制服を連想させるが……。それよりも遙かに上等な布地、上等な仕立てをしている。純白の上着と鮮やかな朱色のスカートからは白く細い四肢がすらりと伸び、健康的で活力に満ちている。

 眩しさすら覚える程の、凜として堂々とした佇まい。


 そして、目を引くのが彼女の両腕。

 ――少女には不釣り合いな、無骨で無機質な白銀の大型手甲。


 彼女が何かに気が付いたように振り向いて、俺たち三人を見やった。

 しばしの沈黙。


「……あっ。……こ、こんにちわ?」


 彼女が小さくお辞儀をする。俺たち三人も、釣られてぺこりと頭を下げた。


 とても端正な顔立ちをしていた。年の頃は十代そこそこだろうか。涼やかな眉に、切れ長の目。形の良い鼻と、上品な唇。どこか儚さを感じさせるような中性的な顔つきが、より一層その神秘性を引き立てている。


 俺は今、何かとても神々しい存在を見ている。その確信があった。

 彼女は少し首を傾げてから、ベヒモスの方へと向き直る。


「えーと。あなたが、べひ……べひんもす? ……えーと、牛さん」


 金縛りが解けたかのように、ベヒモスが体勢を低くした。

 再び聞こえる地鳴りのような足音。全身の筋肉を躍動させて、勢いよく地面を蹴る。

 頭上に伸びた二本の角を突き出すようにして、そのまま少女に向かって突進してくる。


「危なッ……!」


 叫んでいた。俺だけじゃない。テートも、カリスも。

 そして、俺たちは信じられないものを目にした。


 ――腰を落とした少女が、手甲を嵌めたその細腕が、ベヒモスの角を掴んでいたのだ。


 彼女の手で封殺された突進のエネルギーが、巨大な衝撃波となって周囲に伝わる。ビリビリと大気を震わせるその波の中で、俺たちは立っていられずに膝を着いていた。少女を中心にして、地面が円形にヒビ割れる。


 暴牛の荒い鼻息が聞こえた。

 奴は眼前の相手をなんとか排除しようと、なおも足を止めずに前へと繰り出そうとしている。しかし、全く前に進まない。彼女の周囲だけが時間を切り取られたかのように、その小さな身体は微動だにしなかった。


「よいしょっと」


 そんな気の抜けた声を発した少女が、腰を回しながらベヒモスを目一杯投げ飛ばす。まるで路傍の小石を気まぐれに放ったかのように、不自然なほど軽々と。少し遅れて、スカートの裾が揺れる。

 宙を舞った暴牛は放物線を描いて地面に激突し、周囲の木々を薙ぎ倒しながら転がった。


 少女が手についた泥を払おうと、ぱんぱんと両手を叩く。それに合わせて、白銀の手甲がカチャカチャと無機質な音を鳴らした。


「牛さん。あなたがここにいるのは、手違い? です。……だから、倒しに来ました」


 少女のその無慈悲な宣告に、ベヒモスが「ブオォォォ」と力なく反応した。


 俺の頬を熱い何かが伝う。数瞬遅れて、自分が涙を流していることを知った。


「ごめんなさい。でも、これが私の仕事なので」


 滲んだ視界の中で、少女がゆっくりと動く。

 左腕は真っ直ぐ伸びて手の平を相手に見せるように。右腕は脇を締めて肘を折りたたみ、後ろへと構える。左足を前にして、射手がするように身体を斜めにして敵と対する。力みのない流れるような所作にも関わらず、尋常ならざる威圧感が伝わってきた。


 それに呼応するように、遠く地面に横たわっていたベヒモスがゆっくりと起き上がる。再び前傾姿勢をとるが、その前足が小刻みに震えていた。先ほどのダメージのせいか、あるいは恐怖からか。


 かつて冒険者十数人を蹴散らしたベヒモス。

 かつて勇者パーティ五人と互角の戦いを繰り広げたベヒモス。

 モンスターとして抜きん出た能力を持っていることは、およそ疑いようがない。だが今、敵として対峙する少女はそれを遙かに凌駕した武力を有している。あの一瞬の攻防で、それは誰の目にも明らかだった。無論、ベヒモスにとっても。


 それでも、暴牛の心は折れなかったらしい。


 奴は鼻から勢いよく息を吐き出すと、その瞳の中に殺意の火を灯す。足の震えは完全に収まり、先ほどよりも水平に頭部の角を突き出していた。全身全霊を持って目の前の人間を刺し貫かんとする、強烈な意思を感じる。餌ではなく、敵として。


 長い長い静寂。木々の葉が擦れる音と、少女の小さく浅い息遣いだけが耳に残る。


 ちゃんと見なければ、と思った。一瞬も見逃すことなく、その顛末を。


「まさか……。戦乙女(ヴァルキリー)様……!?」


 神に祈るように両手を合わせたテートが、そう呟いていた。


 戦乙女……、“黒髪の戦乙女”!

 子供の頃の記憶が蘇る。

 神話世界の女戦士。数々の怪物を打ち倒す、人類繁栄の象徴。ロキ神の剣にして、その代弁者!


「いけぇぇぇぇええええええッ!!!」


 俺は腹の底から叫んでいた。


 その声を合図に、ベヒモスが動き出す。

 地面を蹴る大きな音。真っ直ぐ、ただ真っ直ぐに向かって来る。

 助走距離を十分に確保したベヒモスの突進は、まるで一本の巨大な槍のようだった。


 対する少女は右の拳を握ると、ゆっくりと上体を後ろに回す。まるで弓を引き絞るように、身体の内に生じる全ての力を一撃に乗せるように。


 槍の先端が迫る。

 その刹那、少女の細腕を覆う手甲が赤く煌めいた。


「――『ぐんぐにる』」


 パンッ、という空気が爆ぜる音と共に、少女は右拳を繰り出す。


 赤い雷光が走ったかと思うと、轟音を残してベヒモスの二対の角が砕け散った。

 少女が拳を振り抜く。遅れて、土煙が巻き上がる。

 力負けしたベヒモスの前足が浮き上がった。

 角こそ失ったものの、その巨体は未だ無傷。

 「早くトドメを」という言葉が、俺の脳裏をよぎる。


 ――だが、それが口をついて出ることはなかった。


 次の瞬間、暴牛の身体の上を赤い雷光が走っていた。


 少女の渾身の一撃、その破壊は角だけでなく奴の全身に及んでいたのだ。

 叫喚と共に遠くへと吹き飛んで、地に伏す暴牛。

 その身体が端から崩れ、消えていく。


 少女はすでに構えを解いていて、その光景をじっと見つめていた。

 やがて大きな魔石一つを残して、ベヒモスは完全に消滅した。


 圧巻だった。何も言えなかった。

 あまりにも衝撃的で、感動的で、圧倒的で、神秘的で……。


「……終わったー」


 背中を見せる少女は一仕事終えたといった様子で、大きく伸びをしている。だが、彼女の立っている場所もその周り全ても、地面は抉れ木々は倒れ、ひどい有様だった。


「ん、お腹空いたなぁ。ハンバーグ、食べようかな。でも、夕飯が……」


 少女はぐるぐると右肩を回し、なおも独りごちる。


「そもそも、牛さんを殴らせる日に『牛100%』って。絶対イジワルっていうか……。やっぱり、私のことからかって――」


「えっと……」

 やがて、恐る恐るといった様子でカリスが口を開いた。


 少女の肩がびくんと跳ねる。ギギギと音が鳴りそうなほどゆっくりとした動作で、俺たちの方へと身体を向けた。


「俺たち、助かった……ですよね?」カリスが俺に尋ねてくる。

「あ、ああ。そう、だな……?」


 俺はためらいがちに、ゆっくりと頷き返した。

 カリスは「ははは……」と力無く笑っている。横を見れば、テートは心ここにあらずといった状態で棒立ちになっていた。

 喜びよりも、困惑。感動よりも、確認といった感じだ。戦いの興奮が冷めた後、かなり遅れに遅れて混乱がやって来たのである。


 不思議だったのは、少女もまた俺たちと同じようにオロオロと戸惑っていた事だった。先ほどまでの凜とした振る舞いが嘘のように、おっかなびっくりといった様子でこちらを窺っている。



 そして、長い沈黙。



 ややあって、再び彼女が小さくお辞儀をした。俺たち三人もまた、釣られてぺこりと頭を下げる。


「え、えーと。ワタシ、しごとおわった、ので。かえりマス……でス」


 頬を朱に染め目を泳がせながら、ぼそぼそと歯切れ悪く喋る少女。

 頭の整理が追いついていない俺たちは、その発言の意味を理解するのに時間が掛かってしまった。


 彼女はしばらくもじもじしたかと思うと、「バイッ!」という一言残してくるりと背中を向けてしまう。


「ヴァ、戦乙女(ヴァルキリー)様!」


 たまらず、テートが声を上げた。


 この少女は一体何者なのか。どこから現れたのか。本当に、神話の“戦乙女(ヴァルキリー)”なのか。あんな凄まじい戦いを見せた後で、一体何を恥じらう必要があるのか。聞きたい事は山ほどあった。だが、それよりもまず伝えなければならない事がある。

 俺は息を大きく吸って、腹から声を絞り出した。


「ありがとう!」

「……うん」


 少女はちょっとだけ横顔を見せて、俺に向けてぎこちなく控えめに手を振る。

 そして、彼女はこちらの反応を待つことなく地面を蹴って高く跳び上がった。跳躍に合わせて、肩まで掛かる艶やかな黒髪やスカートがふわりと膨らむ。

 彼女は木々が倒れて更地ばかりになってしまった森の中を、跳ねながら去って行く。やがて前方に残る木立の中へと飛び込んでしまうと、その姿はすっかり見えなくなってしまった。


 遠ざかる背中を見送ってから、俺はもう一度「ありがとう」と呟いた。テートは少女の向かった方へと頭を垂れ、カリスはいつまでも手を振っていた。


 どこの誰だったのかなんて関係ない。

 あの少女は間違いなく、俺たちにとっての救世主だったのだ。

 神様は、こんなちっぽけな俺の願いを叶えてくださった。

 ちゃんと見ていてくださるのだ。

 なら、俺もそれに恥じない生き方をしないといけない。


「なあ。テート、カリス……」


 もはや何の迷いもなく、心は晴れやかだった。


「俺は、今日で冒険者を引退することにしたよ」


 夢にすがり続けた日常は、もう終わり。口元には、自然と笑みが零れていた――。

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