一章【女たちの王国】(7)
そのとき川西由希子はデッキで知らない若い男性客から声をかけられた。
「ノー、イングリッシュ、ノー」
彼女はそれしか言葉を知らなかった。実際には相手はイタリア語だったのだが、あまりに早口で聞き取れない。
「人種差別はいけない」、相手はそんなニュアンスの内容を告げたのだろうけど、言葉が返せない。
「やめたまえ」
車椅子の老いた男性が声の穏やかな本場ブリテン式の英語で遮った。
どこの人ともわからないほど肌は浅黒く、頭髪は白く、やせ衰えて眼窩がくぼみ、鼈甲の眼鏡をかけている。
「お嬢さん。あなたは部屋にお戻りなさい。彼らとは儂が話をつける」
老人はそのときだけとても流暢な日本語で言った。顔が少し歪んだ。笑ったのかも知れない。由希子は老人の言葉に背中を押されるように走り出した。
「おまえらの仕事はマフィアのボスの身辺警護だろう? それともプライベートなレジャーかね?」
「ジジぃ。舐めてるのか? その顔色ならそんなに死に急がなくてもすぐにお迎えだぜ?」
ひとりがジャケットの裾をひらひらさせ、これみよがしにナイフをちらつかせる。
「やれやれ。これがかつての同盟国とはな。情けない」
「おまえは日本人か?」
屈強な男たちはとても差別的な表現を使った。
「儂らの祖国はもうどこにもないがね」
老人はどこか物悲しそうに言った。
「おまえらは戦車も戦闘機もまともに製造できなかった弱小国しか相手できなかったんだぞ、敗戦国人」
「ほう。少しは歴史を知っているようだな。弱小国が蹂躙されるのは仕方のないことだ。儂ら兵士は平等な社会の実現を信じ、守るために戦った」
「ハワイを爆撃して、東南アジアまで攻め込んだんだろ? おまえらの国はおかしい。おれらは詳しいんだぜ?」
「資源がなければ何も守れやしない」
「わかったからもう大人しくしてろよ」
男が拳を振り上げた。死んだところで構ったものか。どうせ寿命だ。その程度にしか考えていないのだろう。
「ひとつだけ修正しておいてやろう」
老人は言った。
「世界は忘れているようだ。祖国は国体を護持し、儂はまだ敗戦を認めていない。ゆえに千年以上に及ぶ戦争はまだ継続している!」
「ユキコ・カワニシは無事だ。いま部屋付きメイドが彼女を保護した」
物陰で見ていた男性警備員、通称ヤヌスガードがインカムに伝えた。何か質問されたようだ。
「……いや、特別な現象は何も観測していない」
老人が車椅子から弱々しく立ち上がりながら、ボクシングの心得があるとおぼしき男の拳を低くかいくぐった。
まるで無駄がない。水が流れるような次の動作は、弱々しく老いた身体からは想像もつかないほどダイナミックな全身運動だった。
しかし、リラックスしている。運ぶべきところに脚があり、腕は自然に伸びている。
老人は日本語でなにかぼそぼそとつぶやいた。
「うつろいに、このみがたとえ、朽ちるとも……」
わずかにねじり込んだ左胸部への掌底打ちでひとりが沈んだあと、老人は枯れた声で静かにささやいた。
「研ぎべりしても 折れずまがらず……風祭流、龍槍当身」
仲間たちがうろたえている。
「さっさと医師に見せてやれ。命に別状はないが心停止しておる。急げ」
男たちがいなくなるのを見届けてから、老人は崩れるように車椅子にストンと落ちた。
「やれやれ、シチリアの誇り高い抵抗者の末裔が、情けないものだな……」
「ミスター古賀! ご無事ですか?」
男性警備員が急いで駆けつけた。
「見ておったなら、もうすこし早くきてくれんかの」
古賀甚八はいまにも消えそうな声で言った。黄疸が出ている。一〇一号によく宿泊している余命幾ばくもない孤独な常連客だった。
テンプルオブヤヌスは病院船でもある。末期の癌患者のターミナルケアも提供している。古賀老人はかつては侠客で、タイを中心に東南アジアで活躍したという。一見して暴力とは無縁のインテリにも見えるが、左手の小指が欠けているのは当時のケジメというもっぱらのうわさだ。
暴力沙汰を禁止する船内協定に違反したのはマフィアの方なので、ボディガードらは船長判断により次の港で下船となった。
世界中のありとあらゆる船舶において、船長とは三権分立の執行者となる。出港し、入港するまでの期間、必要とあらば君主にでも、警察や裁判所にもなる。
船長による下船命令は、マフィアだろうと大国の大統領だろうと一切関係がない。