一章【女たちの王国】(5)
プールサイド。由希子はシャワーを浴びてから涼しげな夏物のワンピースに着替え、パラソルの下で静かに読書をしていた。タイトルは『ヘーゲル哲学入門』。なにやらむずかしそうな本だ。
「こんにちは! いつもひとりなんだね!」
涼子は後ろからとても元気に挨拶した。
由希子はとても驚いた顔をして振り返った。
「あの……あなたは……?」
「わたしは涼子! あなたは?」
「か……川西由希子です、はじめまして……」
しばらく動悸がおさまらなかった。
由希子は少し考えて、この涼子という少女がとても失礼なことを言ったと気づいた。
しかし、まるで悪びれていない。
人に対して向ける悪意がない顔を、由希子は初めて見た。
「どうしてひとりなの?」
涼子はとても不思議そうに首を傾げる。
「一人旅だから。でも、お世話をしてくれる人ならたくさんいる……」
「は……? ごめんよくわからない」
この涼子という少女の相手をしているのが、由希子は徐々に面倒くさくなってきた。少しずつ顔の印象が霧散してゆく。だから機械的に返事をした。
「あなたは、誰ときたの……?」
「おにぃちゃんみたいな人!」
由希子は意味がわからなかった。やっぱり知らない人種だ。
何を話したらいいのかまるでわからない。とりあえず自己紹介だ。
「あの、わたしは一六歳。あなたは……?」
「同じ年齢だから、これからは友だちだよ! じゃあよろしくね」
「え、ええ……」
由希子は戸惑いながら適当に相槌を打った。
広大なデッキにはバスケットコートが当たり前のように存在している。涼子はすでにコートの中を縦横無尽に駆け回り、体躯で圧倒的にまさる欧米人男性らを華奢な身体で翻弄している。
涼子が休憩で戻ってきた。
「運動がとても得意なのね」
由希子は素直に称賛した。
「これしかできないからね! 由希子も一緒に遊ぼ!」
もう呼び捨てだ。もしかしたらこの子は残念な人かもしれない。
「日陰で休むわ。涼子ちゃんを見ているだけで楽しいから」
「バクテンとかできるよ!」
涼子はすでにその場ですぐやる準備に入っている。
「危ないことはしないで……?」
「へーき、へーき」
涼子はお約束のように着地に失敗し、転倒して突っ伏した。
「アイター」
いかにも痛そうに起き上がる。
男性の声が割って入った。呆れ果てた声だ。
「涼子、何してんだよ、船はこれでも揺れてるんだぞ。知らなかったのか?」
「う、うっさい! 船内病院行ってくる」
「足もとがふらついてるぞ。しょうがねぇな……。あ、川西さん? お話しはかねがね」
どうして自分の名前を知っているのだろう。いまが初対面のはずなのに。
狐のように細い目で品定めをするような視線だ。好きなタイプじゃない。もっとも、好きなタイプなどいないが。はっきり言ってしまえばキライだ。知り合いじゃなくてよかった。
「あの……、ひょっとしたら涼子ちゃんのお兄様、ですか?」
由希子は実は性格が悪いのだが、本人はそのことをまったく自覚していない。
「正確には涼子のねぇちゃんの亭主なんだけどな」
「あの……、お姉さまは一緒にご乗船されていないのですか?」
キツネは首を左右に振った。
「前日に熱出して、チケット無駄にするのも癪だからきたのに、せっかくの休暇に子守をする羽目になっちまった。やれやれだ」
「そうなんですか……」
由希子はふたりがまるで似ていないことに納得した。血が繋がっていないなら当然だ。
由希子は安心した。ただのおばかと、自分に下卑な視線を送るいやらしい男が赤の他人であることに。
ただのおばかが弱々しい声を出した。
「ごめんキツネ、病院はわたしだけでいい……脚と肩を擦りむいて痛い」
「まあ、おれも行くさ。じゃあ由希子ちゃん、これからも妹をよろしくな」