四章【たったひとりの軍隊】(7)
『万物貫通』と『絶対拒絶』、ふたつの異能の衝突は膠着した。効果があったのは言葉だけか。
全身を容赦なく打ちつけるみぞれが冷たい。ひたすら動き続けていなければ意識が飛びそうな寒さだ。
水のごとく曇りのない鉄の刃が流れるような動きでひらりと一閃した。
力を入れず相手の首を撫でるだけ。それ以上はいらない。
力を抜かねば、砂鉄から鍛造され、粘土のように柔らかく粘りのある古刀の耐久性が追いつかない。
自由な左手で、拳銃を抜いた。
ありったけ残弾をぶちまける。
拳銃を捨てた。次を装填している悠長な暇などない。
常識的な戦い方などしていたら勝負にならない。
相手の予想を常に裏切り続けなければならない。
殺されずに殺らなければならない。必死だ。
ゆっくりと肺に息を溜める。一秒でも長く戦うために。無呼吸運動のあとの疲弊した身体を回復させる「裏の戻し」と呼ばれる古武術の技法だ。
相手が警戒してくれれば、再びわずかな隙が生じるかもしれない。
考える前に動け。
由希子はまったく表情を崩さない。雨も、みぞれの影響も受けておらず、乾ききっている。
涼子は、相手の動揺を誘うために言った。
「おまえがやさしくしないで、誰がおまえにやさしくしてくれるんだ?」
結界が水面のように揺らいだ。
『万物貫通』と『絶対拒絶』、ふたつの異能の衝突は膠着した。これだけやって効果があったのは言葉だけか。
「あなたが知らないことをわたしに聞かないで」
「じゃあおまえが知ってることを言え!」
全く同じ声だ。どちらが何に話しかけているのかもわからない。
涼子いったん退いて距離をとった。
キツネが急いで駆けつけてきた。
「大丈夫か?」
「大丈夫!」
「そうか。大丈夫か」
キツネは安堵したように言った。
「大丈夫そうに、見える……?」
涼子はジト目をキツネに向けた。
「わからん。日本語ってむずかしいな!」
大雨のなか、キツネは半分泣き笑いだ。成功する可能性が見えた。ただそれだけで、高笑いが止まらなくなりそうだ。
そこに着衣がボロボロになった神父があらわれた。
「これも神のご加護だ」
本人は自分が無事だったことについてもそう断言しているが、彼の場合はどう見ても筋肉のおかげである。涼子なら本人の努力と根性だ。
かつてヒカリだったものを平然と踏みつけ、神父はキツネのとなりで雨天を仰いだ。
「仕方がない。やつは0なのだ。無から見たらすべて一緒だ。もう楽にしてやるとよい……!」
「なんだてめぇ?」
涼子は知らない者に斬りかかろうとした。
「涼子、おまえの敵はそっちじゃない!」
キツネがあわてて間に立つ。
「敵の敵は味方じゃないっ! キサマは何を踏みつけている! いますぐその汚い足をどけろォ!」
遺体にだって尊厳がある。それがたとえ敵のものだろうと涼子には関係がない。
「わかった。おまえは正しい。何もかも正しい。だが、おまえの本当の標的を思い出せ!」
キツネの指摘に涼子が黙った。道具として誤った選択をしたからだ。
神父が言った。
「自分の手で何もできないなら、他人の死を見つめるな……。そいつはおまえじゃない」
「なんだと……?」
涼子の声が怒気を孕んでいる。
「ふたりとも黙っててくれぇ!」
キツネは悲鳴をあげた。
由希子の絶望がみぞれとともに叩きつける。涼子の全身が冷えきっていて、指先の感覚がほとんどない。
「わたしはあなた。あなたはわたし。こんなことは最初からなかった」
「ああ、最初はなかったな!」
涼子は言い返した。
「おおうそつきがふたり。お互いを騙して利用して、自分にもうそをついてるので、もう誰にも真実はわからない……」
「知るか! わたしの行動が真実だ!」
「そう……。ならば愛情と憎しみはなんんの矛盾もなく両立するわ。愛したから疎まれ、疎まれたから憎み、憎んだから引き裂いて忘却した」
「戻ったところでどうしょうもない。運命のレールは変えられない。同じことを繰り返すだけだ!」
同じ声と同じ顔、一方は大雨のせいで髪も濡れ、着衣でしか区別がつかない。青いドレスが由希子で、全身ずぶ濡れで凍りつきかけている半袖の学校制服が涼子のはずだ。
もはや会話にさえなっていない。両方がともに言いたいことを言っているだけ。
「おまえがもう悩まないでいいよう、わたしが終わらせてあげる!」
「だからもう帰れないの。帰る場所がないの!」
「よかったな。わたしには最初からなかったんだよ! おまえらは下がってろ、くるぞッ!」
雑な承認欲求と歪な承認欲求が再び衝突した。
もはや全員が、ただ見ていることしかできない。