一章【女たちの王国】(4)
フレシエッタは元スペイン海軍の女傑だ。『女海賊』と呼ばれたこともある。
それがまさか軍を除籍した後に平和なクルーズシップの船長になるとは、彼女自身も想像していなかった。
海軍で巡洋艦の艦長として配属されるはるか以前の士官学校時代から目をつけられていたのだろう。大胆にして狡猾な海の狼は、組織から高い評価で迎え入れられた。
大型船の内部は、区画ごとに、いざ浸水しても船が沈まないよう、空気と水を遮断する防火扉と隔壁が、随所の通路、廊下、階段といった要所に配置されている。
重い殺伐とした扉を内側から押し開けて旅客エリアに出る。
扉一枚隔てた向こうはもはや別世界。世界最高峰のホテルシップだ。
彼女は、白い制帽とパンツスーツの船長服でさっそうと操舵室に向かった。
一部の常連客からは男装の麗人扱いもされるが、彼女の気質は骨太な海の男そのもの。
乗組員全員が一切ミスをしなくても、それでも予想外のトラブルは必ず起きる。
そのときいかに冷静沈着に状況に対処できるか。それが海に生きるものとしての資質だ。
一般的に、船舶は女性には厳しい現場だ。もし結婚できても、現役を退くまでは出産もできない。海の顔は毎日異なる。嵐の夜もある。体調を崩すこともできない。それでも船長は彼女たったひとりしかいない。
だからこそ、ここは彼女の家であり庭だ。
運航している限り、フレシエッタは寝ている時間さえも船長なのだ。「父母」という肩書に休みがないのと同じ。船とはいわば擬似的な家庭だ。
だから常に気を張り詰め、訪問者たちの前では優雅にたちふるまう。
おおいなる矛盾を孕むものにはそれだけの器が必要となる。
操舵室につくと、クルーたちが肘を脇腹につけた海軍式の敬礼をした。古典的な陸軍式の敬礼をするには船内は手狭だったから、船乗り特有の敬礼が定着した。
全員がスペイン海軍時代からの精鋭の部下たちだった。
「ここは客船だ。敬礼は不要だ」
フレシエッタはいつもと同じ言葉を繰り返す。
「はっ。キャプテン、パッセンジャーへのウエルカムアナウンスをお願いします」
部下の言葉を聞きながらフレシエッタは船長椅子にかけた。
「わかった。通信をこちらにまわせ」
「イエスマム!」
操舵室は静寂に包まれた。船長アナウンスに余計な雑音を拾わせないためだ。
船長のウェルカムアボードのアナウンスが案内とともに全船内とデッキに流れた。
みるみるうちに陸が遠ざかってゆく。巡航速度約一五ノットの風から塩の味がする。
海の上にあるのに全く揺れない。まるで移動する島だ。
「まいったな、もうスマホの電波もつながらん」
キツネは嘆いた。
「何ソレ?」
涼子は真顔で言った。
「文明人が使う道具だ。おまえには関係ない」
「殴るぞ」
「手は使うな」
「何を使えばいいんだ」
「頭だ。頭を使え」
「わかった!」
涼子はキツネに頭突きをした。
「どう?」
涼子はありったけのドヤ顔を浮かべた。
「ああ、頭だな。よくやった。正しいね。涙が出るくらい、理屈的には正しい」
キツネはハンカチで鼻をおさえながらうめいた。
「ところで、これからどうするの? わたし、何も知らされてないんだけど」
「知らんのか? イケメンは自分から動いちゃいけないんだよ。日本国憲法を読め」
「キツネが何言ってるかわからん」
「おまえは知る必要がないってことさ」
キツネのハンカチが徐々に赤く染まってきた。これは鼻血だ。
「もっかいくらうか?」
「すまん。これから三行で説明する。必要なときに、伝えるから、待ってくれ」
「わかった」
涼子は素直にうなずいた。
「さしあたっては、友だちでも作れ」
「了解であります!」
涼子はひとりでデッキを駆け抜けていった。
キツネはうめきながら、ひとりうずくまった