四章【たったひとりの軍隊】(4)
いきなりの侵入者に、涼子は祖父直伝の必殺『ひなわねじ』をかまそうとした。
親指と、人さし指の第二関節で目を潰し、そのまま鼻骨をねじる要領で仕留める。手を止めた。
キツネだった。あやうく失明させて呼吸困難で殺すところだった。
キツネは青ざめている。
「やめて」
涼子がキレかけている。
「せめて一声かけろよ!」
「こんな殺気をふりまいてたらおれだっておそろしくて声が出んわ」
キツネは冷や汗をかきながらハンズアップしている。
「おまえなんかキライだ」
「おいおい、これでも人から好かれる努力をしてるんだぜ。おとなしく待つこともイケメンの仕事だけどな、かといってもう時間がねぇんだよ」
「日本人なら、英語オーケー?」
「ノーセンキュー」
「どうやらホンモノのキツネみたいだな!」
涼子はいままさに殺ろうとしていた手を下ろした。
「ああ。バカほどわかりづらいもんさ」
「おまえはわたしをばかといったから殺す」
「おまえが頭がいいという意味だから許せ。大人の女になったな!」
「そうか。ようやくキツネも違いがわかるようになったな」
「なあ、常識って言葉知ってるか? そいつを探してこい。いますぐだ」
「どういう意味だ」
「深い意味はない。あと恥って言葉知ってるか? そいつも回収してこい。いますぐだ」
「殺されたいのかそうか早く言えいますぐ苦しまないように」
「違う。助けてくれ」
「これでもわたしはイライラしてるんだぞ?」
「それが、おまえが大人の女になった証拠だ。これからおまえは毎月イライラする」
「石で、殴るぞ?」
ちなみにそんなものはどこにもない。ここには人を殺すための道具しかない。
「で、おまえさんが投降しないなら、やつらはおまえごと全部処分するそうな。だからおれが交渉役できた」
「裏切ったんだな処刑する」
「裏切ってない。おれは心でおまえに許しを乞うたんだ」
「そうか。やつらがわたしを敵認識するのは『どうぞご自由に』だけど、蟻を踏んで謝る人はいない。みんなが弱者なら強者などいない! だから銃を向けたやつを無条件に撃つおまえでもだ」
「そういうのは言う前にやるんだ。体を先に動かしてからあとで言い訳をするんだ。しかしおれにはやるな」
「わかったあとで言い訳をすればいいんだな」
「そうだが違う、おれじゃない、やめろおれは武器をもってさえいない」
「キツネは嘘つきだからやるしかない」
「ホントのホントだからやめろください」
「しょうがない。言い訳を考えるのがめんどくさいから今回だけは見逃してやる立ち去れ」
「あと気圧が下がっているからこれから天候が崩れるぞ、それだけ伝えにきた」
「わかった。撃つ前に去れ」
「ああそうさせてもらうぜ、幸運を祈る。あと、誰だよ『こんな楽な仕事はない』って最初に言ったバカは!」
「キツネ。あんただよ!」
「一般客にまでいるなんて卑怯じゃねぇか!」
「それ、わたしらが言っちゃう?」
「わかった。こんどからもっとズルくなるわ。敵が二〇〇〇人もいるなんておれだって思わなかったよ!」
「だったらひとりで一〇〇〇。不可能な数字じゃない」
「相手はプロだよ! ナメるのも大概にしろ! ついでにおれを頭数に加えるのはよせ。おまえ対二〇〇一だ」
「わかった。目的を達成するだけなら、何万人いようと関係ない。わたしやってくる」
「人間、本当にやると決めたなら手も足ももう動いてるもんだ。やります、やりますとおクチで繰り返してるうちは何もしてきやしねぇよ!」
キツネはそれだけ言い捨てて逃げていった。
そういえば身体がだるい。なんだか肌寒い気がする。低気圧のせいか。疲労のおかげで気づかなかったが、昼が近いのに空が暗い。
時差がどうなっているかわからないから、祖父からもらった古ぼけた自動巻きの腕時計が最後の時間合わせからなんの役にも立たなくなっていた。もう太陽も見えないから、ほんのわずかにでも身体を軽くするために外した。
敵の大軍勢が雨とともにわたしの存在をかき消した。わたしは自由だ。
南半球では季節外れの暴風雨だ。組織ご自慢のスパイ衛星も偵察用UAVも役に立たない。いまこそ千載一遇のチャンスだと涼子は確信した。
涼子は視界が悪い中を飛び出していった。冷たい雨が全身の汚れを洗い落としてゆく。
「さあばか女、殺しにきたぞ!」
涼子は叫んだ。その声さえ雨音にかき消されてしまう。
どこへ向かえばいい。会ったやつは片端から斬り伏せてやる。
しかし、デッキには誰も出ていなかった。空を大量に飛び交っていたドローンも、船体やデッキに叩きつけられて、とっくに壊滅している。
暴風雨に加え、海流の影響で大型船が大きく揺れている。
--涼子さん、聞こえて? 異能は二体よ!--
もう使いものにならなくなっていたはずの船内放送を通じて船医の声が大音量で呼びかける。
--こんなこともあるかもしれないと、ヒカリの体内に事前に爆弾を仕掛けておいたわ。無効化されてしまったけれど、心臓にセットしてある。あの子をもう止めてあげて!--
涼子が動き出すタイミングを直前までキツネと打ち合わせていたのだろう。すでにヤヌスの二〇〇〇余名は信号弾でお互いに連絡をとりあっていたので、由希子もヒカリも油断していたのかもしれない。