二章【ここにいて、ここにはいない】(15)
ディナータイム。この場このタイミングでは、キツネも涼子も、由希子も、流石に最上級のフォーマルを着ていた。カジュアルならば門前払いになる、そういう場所だ。
キツネは船内店舗における予想もしなかった大出費に頭を抱えていたが、卑屈な小物ヅラとは裏はらに、意外と上質なタキシードがさまになっている。うら若きレディーたちをエスコートするのも絵になっている。
涼子は真紅、由希子は紺のドレスだ。涼子はいまいち乳くさく、派手な衣装に仕方なく着られている印象だが、由希子にはなぜか大人の女性としての完成された艶っぽさがある。
キツネには違いがわかる。ヤリチンだからだ。いかにもガキ丸出しの涼子と違い、由希子には確実に男性経験がある。
不幸な清純ビッチだけが醸し出す濃厚な負のフェロモンにキツネはたまらなく弱い。
未成年者には興味などないはずだったが、キツネはいますぐ由希子を連れ出してファックしまくりたくてたまらない。
真実の愛に年の差など関係ない。由希子は確実にヤリマンの素質がある。それを正しく育ててあげたい。
あまりに似ているのだ。かつてキツネが愛した女に。
そして涼子はそうした気配をすぐに察する。
「キツネ、ちょっとイカくさいぞ」
「今夜のメインはシーフードだからな」
鼻息も荒く言ったが、まるでごまかしきれていなかった。鈍感な由希子だけが気づいていないが、キツネはかなりフル勃起していた。顔が赤いから由希子でえっちな想像をしているに違いない。
涼子はテーブルの椅子を引きながらさりげなく後ろから膝蹴りした。キツネはきんたまを抱えながら死んだみたいに席についた。
横からいきなり仕事を奪われたバトラーが困っていたが、知ったことか。
涼子は微妙に嫉妬していたが自覚はない。
「フォアグラもトリュフもキャビアも、だめなレバーと味のしないきのこと黒くて残念ないくらだね!」
涼子ははっきりと言った。カレーがご馳走なやつに何を食わせても無駄だとキツネは悟った。
「おまえは料理が足し算であることを学べ」
「余計な手間はいらない。引き算の美学」
涼子は即答する。これだから野戦食さえまともに届かない最前線育ちはだめなんだ。
生きた蛇でもミミズでもケロッとした顔で食し、カレー粉でもまぶせばもうご馳走だ。
「さあ、食欲が失せるからっさと食べよう。この食材は塩で食べたらきっと美味しいんだろうなぁ」
それはきっと美味しいということだ。涼子のグルメ気取りにキツネは心中でツッコんだ。
「やっぱ塩だな。素材のよさを邪魔しない」涼子は真顔で言う。もう最悪だ。
諸々のおかげでキツネは食欲がない。キツネはやたらと濃厚で苦いワインを飲んだ。値段がお高いのにちっとも美味しくない。
「これカタツムリだよね!」
(エスカルゴだよ!)
キツネは心から叫んだ。日本の庶民がイメージできる高級食材のすべてを涼子はことごとく否定した。こんなにわかりやすくひどいコースは成金バブルしかオーダーしないのは事実にせよ。
そんな駄目なふたりをよそに、由希子がおそるおそるたずねた。
「あの……、こんな高そうなものをご馳走になってよいのですか……?」
「気にするな」
これが最後の晩餐だと言おうとしたが、キツネは言葉を飲み込んだ。
何も知らないまま、小さな幸せを与えて、弔ってやりたい。それがキツネなりのせめてもの償いだった。キツネは涼子と違う。人間らしい情がある。
涼子がキツネに伝えるつもりで言った。
「あんまり美味しくない。食うな。毒だ」
それを誰よりも涼子が一番多く食っている。
キツネは酒を飲むのをやめ、由希子は即座に意識を失った。
「キツネ、逃げよう」
ふたりは立ち上がった。由希子は置いていった。どうせ助からない。
間違った情けや優しさは弱さになる。由希子はあくまでも標的なのだ。