二章【ここにいて、ここにはいない】(12)
涼子、キツネは身柄が割れたことも知らず、由希子と同じバスでプーケットの水上マーケットに向かっている。空気からかすかに魚醤の匂いがする。
車内は満席だ。涼子は普段どおりにふるまっているが、いつ手を出すかタイミングを図っているのはまず間違いないだろう。
こちらは道具がなにもない。どうしても必要なら現地調達するしかない。そんな暇さえないが。
エアコンが故障しているのか、たまらなく蒸し暑い。
タイはいま、複雑な事情を抱えている。現国王がとてもだらしないので、あちこちでデモが起きており、道路が混雑している。
いま仕掛けたら、もし仕掛けられたら、終わりだとキツネは思った。
敵はどこからでも好きにやれる。
一方で、涼子もまたやりかねない。そういうふうに躾られ、それだけで育てられてきた爆弾娘だ。
「見てみて由希ちゃん、金色の仏像がたくさんあるねぇ」
涼子がとても無邪気そうに言った。いつでもやる気なのだろう。タイは仏教国だから、日本人を弔うにはちょうどいいという意味に違いない。キツネは震え上がった。
涼子は攻撃を受ける可能性など意にも介していない。
それでも彼女の目的は達成できるのだ。死んでもやるやつは死ぬことなど厭わない。
だがキツネは、自分が巻き添えをくらうことだけはお断りだった。自分が助かることだけを必死で考えている。
いますぐバスから降りたかった。それをしないのは、彼にもまた結果を見届ける役目があったからだ。
そもそも由希子は殺して死ぬかもわからない。だからいつでも仕掛けられるのに、涼子も慎重に様子をうかがっている。
人間としては重要な部分が欠けているが、道具としてはきわめて優秀といっていい。
確実に、一〇〇%、仕留める。失敗しない。生き延びることなど考えていないから生きてる限りは成功する。失敗したら死ぬ。しかし成功したら死んでもいい。
狙われる方にしてみればたまったものではないだろうが、いま標的は貧血のせいかウトウトしている。
あまりに無防備で無警戒だ。つい先日狙撃されたばかりだというのに。
「せんせぇ、ぼくもう帰ってもいいですか?」
キツネは挙手して言った。
「バスの車内ではお座りください」という返事がかえってきた。
「やれやれだぜ……」
キツネは考えることをやめた。涼子はよくても自分が死んだら見届けることができないではないか。
確認して報告するまでは死ぬわけにはいかない。そもそもキツネは死にたくない。
バスは時間遅れで水上マーケットに到着した。
なぜあの絶好の条件で何も仕掛けてこなかったのか、キツネは訝しんだ。他にタイミングなどなかったはずだ。キツネが攻撃者の立場でも間違いなくそうした。相手は相当やる。
水上マーケットで三人は観光用の小舟に乗り継いだ。次から次へと小舟でやってくる商売人たちと交差しながら、おみやげを買ったり食べものを買うのはいかにも東南アジア的で面白い。
小舟の屋台のタイ式ラーメン、バミーナームを小舟の上で食べながら、キツネは思った。この風味はここでしか味わえないが、ここもまたとないチャンスだ。
相手の出方がわからないから、涼子も慎重に隙をうかがっている。こちらは相手の攻撃をも利用するつもりなのだろう。
キツネは涼子が弓矢の弦の部分だけを手に巻きつけていることに気づいた。
麻紐でできた非常に頑丈な紐なので、背中から標的の首を締めるにはうってつけだ。しかも下船時、上陸時のダブルチェックは完全スルーされてしまう。
これは『ゆずるおとし』といい、風祭流に口伝で継承される暗殺術のひとつで、門外不出だからキツネも話にしか聞いたことがない。
おひねりと引き換えに大蛇を見せる見世物小屋の前で蛇に怯えた由希子が戻しそうになる。大型船と違って相当揺れるので、船酔いもしているようだ。いつにもまして顔色が青白い。
突然蛇使いが毒蛇を投げつけた。どちらを狙ったものかわかる前に涼子がすでに反応していた。
素手でキャッチして力任せに頭を噛み千切って胴体ごと川に捨てた。由希子は気づいてすらいない。
涼子の刺すような視線に蛇使いはたちまち逃げ出した。舟は移動し続けており、標的と離れられない涼子は追うこともできない。
標的の能力の発動も見られない。どうやらいまこそが最大の好機だ。
涼子は静かに弓弦を引き、由希子の首にそっとかけようとした。しかし、暗殺は中止された。
銃声が遠くから聞こえた。誰かが誰かと交戦している。由希子もそちらの方には気づいてしまった。
失敗のおそれが一%でもあるなら涼子はやらない。まるで何事もなかったかのように由希子を心配した顔をしている。由希子もだ。
お互いを心配そうな目線で見つめてあっているのはとてもシュールだ。
結局、水上マーケットツアーは無事に終わった。
「楽しかったね」の一言もなく、キツネとその一行は帰りのバスについた。
「蒸し暑かったね」
いささかぐったりとした涼子が言ったが、誰も返事しなかった。
そして船はインド洋を経てアラビア海へ向かう。ここから先しばらく寄港地はない。
涼子もキツネも今度こそ確信していた。
戦争がはじまる――。