二章【ここにいて、ここにはいない】(10)
クアラルンプールを出港した。夕暮れで朱に染まった操舵室を無線室長が訪れた。
「キャプテン。リョウコ・シンジョー及びツネアキ・キダ、ユキコ・カワニシの身辺調査報告書が陸上本社から届いています」
「読み上げろ」
無線室長の報告を、フレシエッタはしばらく黙って聞いた。
由希子は、実際の両親と保護者がまったく違う。これは事前に入手していた情報通りだった。
木田は平成半ば頃に解散した稲荷会の元関係者で、とっくに追放されていることだけが判明した。
彼はかつてホームレスから戸籍を買いつけては不貞外国人に売りつけるバイヤーだった人物で、顔と名前がいくらでもある根っからのアウトローだ。
そもそも『木田恒明』なる人物は最初から存在しなかったことも判明した。
涼子については完全に詳細不明で、少なくとも日本には国籍がない。
古美術品の展示品の搬入に関わった事実以外は、ふたりとも目的は不明だ。
「上は何をしていたんだ、いや、何を考えている……?」
フレシエッタは完全に脱力し、ついほうけてしまった。 マフィアや軍関係者の乗船など珍しくもないヤヌスだが、正当な手続きを経ずに乗船してきたものなど過去に例がない。
メールで転送されてきた紹介状のコピーが本物かどうかなど、船では判断できない。
船医は信頼がおけないからすでに監視させている。いま船が三つ巴で各々が好きに動いてしまっている。
フレシエッタの立場としては、当面何も判断せず、受け身にならざるを得なかった。
「報告は以上となります。組織への返信はいかがされますか?」
「後ほど私室から衛星通信で直接メールする。ご苦労だった」
幸いにして、航海中の船は緊急時以外は会社に即答しなくていい。無線室長は敬礼し、元の持ち場に戻っていった。
「さて、しばらく何もしようがないな」
神父の特殊部隊がどう動いているかはほとんどつかめていない。考える時間が必要だ。
船内にはセキュリティの関係で、客室内を除くありとあらゆる場所に監視カメラが設置されてあるが、おそらく特殊部隊がモニタールームに何か小細工を仕掛けているのであろう。何もわからない。
こちらから迂闊に手を出せば、同じ組織内での攻防になりかねない。
何もかもが悩みのタネだが、以前と同じように何も知らないフリを通すしかない。
由希子を警護しながら監視し、何かあれば船の立場で対応するが、それ以外のことは関わらない方がいい。
しゃくだが、神父は何もかもお見通しなのであろう。フレシエッタは舌打ちして考えることをやめた。
「ギリギリまで待つとしよう。組織が方針を決定しないと、通知が何もできない。我々の職分は、現場に正確な指示をくだすことだ」