二章【ここにいて、ここにはいない】(8)
船はクアラルンプール港に着岸した。見渡す限りコンテナばかりの貿易港だ。キリンみたいなガントリークレーンが首を並べている。空気からはかすかにカレースパイスの香りがする。
大量の観光バスが船に近づいては旅客を乗せ、次々とツアーに出発してゆく。
涼子もキツネも船のデッキからからバスを見送っていた。
「意識が戻ってくれてホッとしたぜ」
「心配してくれてありがと。キツネ」
「……は? 誰がおまえの心配をしていると言った」
キツネは呆れた顔をした。
「キツネなんかきらいだ」
涼子はむくれた。
「仕事に支障が出たらおれが困るんだよ!」
「キツネはわたし愛してない!」
「愛してる。愛しているぞ?」
「それって道具としてだよね?」
「ああ。間違いなく愛情だ。大切にしてるぞ」
「そういうもん?」
「正義を語るものは信じてはいけない。自由を語るものは信じてはいけない。しかし愛は別だ」
「なんで?」
「愛はとても正直だからだ。愛を語るものはうそをつかない」
「なるほど。キツネは頭がいいな!」
「そうだろう。実は頭がいいんだ」
「でも性格が悪い」
「知らんのか? 頭がいいやつは性格が悪い。頭がいいやつが寛容だと、世界が亡びてしまう」
「現代人の知識だな。わたしはもうわかるんだぞ。アニメで見たからな」
涼子のこの口調はまさにアニメの影響だ。わざとらしいほどアニメの声と口調だ。
「ああ。寛容さとはつまり無差別の無慈悲だ。『自分以外は全員殺す』と宣言しているようなものだ」
「現代はむずかしいな」
「時代は関係ない。おまえは基本的に寛容だ」
「わたしはそんなこと言ってない」
「おまえの存在が寛容なんだ」
「わからん」
「わかる必要はない。理解したらおまえは寛容ではない」
「どういうことだ」
「考えるな。ただ感じろ」
「そんなこと言われてもだし」
「考えてもどうせわからんだろ。あほくさ」
「あほって言った」
「言ったか? おぼえてないな」
「キツネはズルイ!」
「ずるくない狐はいない。おぼえておけ」
「わかった!」
涼子を納得させるのはちょろい。口先三寸、言葉で畳み掛けるだけだ。
子どもが苦手なキツネだが、扱いには長けている。
寛容とはパラドクスだ。矛盾した概念だ。人として寛容になるためには人として死ななければならない。
「ところでキツネは道具じゃないわたしは好きか?」
キツネは、うっわメンドクセェという顔をした。
「おれが嘘もつかない、他人を利用しない、そんなただ素直で善良なだけの人を好むと思うのか?」
「じゃあキツネもわたしのことキライってことじゃん!」
「そうは言っていない」
「言った」
「言葉が足りなかったようだな。おれは人間らしさ、人間くささを愛する。だからいくら嘘つきでもいいし、どんなにいやなやつでも構わない」
「わたしはくさいか」
「ああ。とてもくさい」
「風呂入ったのに? 石鹸でよく洗ったよ?」
「おまえはいつも硝煙くさい。それでいい」
涼子は反論しなかった。キツネも忍びよる気配を察した。車椅子が無音で近づいてきた。
「そちらのお若いおふたりさんは、日本の方かね? なつかしい香りがしたのでな」
日焼けした老人がしゃがれた声で言った。
「そうだが、アンタは?」
「これは失礼した。儂は古賀甚八という」
「木田恒明、こちらは涼子だ。この船に日本人が三組もいるなんて、珍しいな」
「儂もそう思っていたところだよ。ところで例の道具を用意した頂いたことに感謝する」
「ああ。なるほど。こちらも商売だ。礼を言われる筋合いでもない」
「ところが儂もご覧の通りこの身体でな。協力をして頂きたい」
「堪忍してくれ。見ての通りおれの両手はふさがってるんでね」
キツネはわざとらしく両手をポケットに突っ込んだまま不躾に言った。
「道具が大切なら、助けてやってはくれまいか? もう時間がない」
車椅子の老人はそれだけ告げて去っていった。
キツネはため息をついて、少女に言った。
「涼子。由希子を殺せ」
涼子の顔が凍りついた。言葉を理解するのにしばしの時間を要した。
「どうして……命の恩人だよ……?」
「その件なら貸し借りはないはずだ。やれるな」
涼子は顔を伏せた。どんな表情をしているかはわからない。
「わかった。やる」
涼子はボソリと言った。たちまち道具としての顔をのぞかせながら。
暗い顔と裏はらに、とても澄んだ迷いのない瞳だった。
どこも何も見てはいない。
その場にもし鏡があったとして、鏡がその視野に間違いなく存在したとして、そんなものは確実に見ていない。
「そんなことはどうでもいい」。鏡よりも澄んだ瞳には無関心しかなかった。
涼子は目的のために必要な手段を即断実行する器だ。
ただ前進するあまたの矛盾だ。
それはそのように、丹念に仕上げられた。
道具は何も考えない。