二章【ここにいて、ここにはいない】(5)
ここは三六五日常夏の海。船はあらたな旅客をトラブルとして抱えながらマレーシアの首都、クアラルンプールへと向かう。
東南アジアにおける客船クルーズの玄関口ともいえるシンガポールを素通りしたことには理由がある。この国はたとえ古美術品であっても、武器になり得るものに対しては日本以上に厳しいのだ。
入港したら最後、シンガポール軍に拿捕され、確実に出港できなくなってしまう。
シンガポール共和国はマレーシア半島の先端にあるゴマつぶのような小国だが、東京二三区ほどしかない面積に華僑を中心とした豊かな経済社会が効率的に集約され、アジアで最も治安がいい。
政治的な腐敗が少なく、世界第三位の外国為替市場があり、東南アジア屈指の石油精製貿易センターとコンテナ港湾をそなえる。
いくら極秘に原子力潜水艦を調達できるような組織でも影響を及ぼすことは容易な沙汰ではない。
世界でもっとも紛争に苦しみ、国家の規模からすると桁外れな軍事力と経済によって日本など及びもつかない平和を獲得した。
列強諸国の軍事拠点も許さず、複雑な事情ゆえに一致した精神で国民が国を守っている。国民が国をつくり、国民が自主的に国を守るという当たり前のことだ。しかし、スイスでさえ『永世中立』のお題目をかかげなければできなかったことをさも当然とばかりに実現している。
シンガポール海峡から先はかなり複雑に入り組んでいて、操船が難しく、船舶事故も多い。主に地中海で艦長をしてきたフレシエッタは海域に不慣れなので、次の寄港地から連絡船で直接派遣されてきた水先案内人にこまめに相談している。
水先案内人の指示でやったことで何があっても、すべてが船長の責任になる。それは本船が彼女の王国だからだ。
緊張のあまり汗をかくそばから蒸発してゆく。操舵室を閉め切ることもできない。海上なのにまるで湿気を感じないのもそれが理由だ。
ただでさえ問題が多く、昨夜からほとんど一睡もできていないので、胃が痛くてたまらない。
「クソだな」
思ったことがうっかり口に出た。幸いにして祖国のスペイン語だったので水先案内人に伝わらなかったのは物怪の幸いだった。
海は珍しく鏡のように静謐な油凪だった。沖合ならともかく海峡でこんなものを見たのは初めてだ。
油凪――平坦な揺れない海もあるのだ。海が、海で生きてきたフレシエッタをあざ笑っている。
この先の不吉をあらわしているに違いない。
そんな鏡の上を、イルカの群れが跳ねている。どちらが空でどちらが海か、肉眼だけでは区別できない。幻想的で、とても美しい。
仕方がない。
フレシエッタはイルカの群れが出現したことを船内放送で旅客に向けて伝えた。