二章【ここにいて、ここにはいない】(1)
一人の少女がいました。
その娘は、争いを好まなかったので、無関心で己を守ろうとしました。
しかし、その小さな身にはありあまるほど大きな力を宿してしまいました。
「わたしが世界から憎まれれば、争いはなくなる。みんなが幸せになれる」
少女は無意識に悪になることを選択しました。
世界は彼女を「ひきさくもの」と呼び、恐れました。
抗おうとさえしない世界を、娘は諦めました。
しかし、少女を隔離して、利用しようとする輩があらわれました。
いま神罰がくだる――。
南シナ海はほぼ赤道だからとんでもなく夏である。
教会の礼拝堂。信じがたいことに、これもまた船内の設備のひとつなのである。
ステンドグラスを透過したやさしく淡い明かりのなか、神父が十字架に祈りを捧げている。あまりに巨軀で、首が異常に太い。ほとんど全身が筋肉だ。これほど神につかえることが似合わない人物もいないだろう。
祈りの場に船長と船医が訪れた。
「おはようございます。少佐」
船長の挨拶に、神父は否定するように首を左右に振った。
「私はすでに退役している身だ。元軍人に用があるなら退役軍人会に問い合わせるといい」
船医が口を開いた。
「では神父様にご報告です。ユキコ・カワニシがビー玉で転倒しました」
船長が補足する。
「リョウコ・シンジョーの指紋が付着していました」
「先日の不貞酔客の一件といい、それらは私に伝えるべき内容かね? 負傷の具合は?」
職員室の気分になった神父がたずねると、船医が答えた。
「擦過傷ですが大事はありません。全治二週間といったところでしょう。日常生活に支障はありません」
「ならば私は彼女の回復ために祈るとしよう」
神父は講壇にあったいかにも重そうな聖書を手にとった。それでも軽そうに見えてしまうのは、彼の体格のなせるわざだろう。
「組織としてはよろしいのですか?」
船長が訝しげに聞く。
「すでに原子力潜水艦ルルイエが追尾している。いざとなったら魚雷で本船ごと沈めるつもりなのだろう」
船長は二の句も告げられずに絶句した。組織は人命をなんだと思っているのか。そもそもいまこの船に旅客として乗船しているのはいずれも重要人物たちばかりだ。
「死だけが万人にもたらされる。すなわち、神の愛だ」
「おまえは軍人としていくら正くても聖職者としては狂っているな」
船長がうめいた。
「おまえはまだ軍人のつもりなのか? 元中佐」
神父と船長は本質に仲が悪いようだと船医は察した。
「元軍医。おまえはどちらだね?」
神父が値踏みするように船医を見た。
「わたしは最初から一介の医師よ。ずっと同じ仕事しかしていないもの」
「マッドサイエンティストの間違いだろう。教会はいつでもおまえの懺悔を聞き入れる」
「わたしはクリスチャンではない。合衆国は信仰の自由を掲げているわ。信者でなくても医業に支障はない」
神父は苦笑した。
「大統領の就任式に聖書を使うプロテスタントの国だ。ならばおまえの信仰とはなんだ?」
「現実主義ね。医師は、過程は患者の自己申告と、その後のカルテからの結果だけを見ます。答えはすぐには出ません。患者は自分にうそをつき、そのうそを自分自身で見抜けないからです」
「そう。だからそのために神が必要なのだ」
神父は胸で十字を切った。
「そうね。医者は神様じゃない。人を救うために人を殺さなければならないときもあるわ」
「十字架と赤十字は同じものだ。神もまたその子らを救うために異教徒を殺す」
ふたりの会話に船長が突然割って入った。
「ところで神父様。船内でのハーブ栽培は事前に許諾を得てください」
船長は呆れ顔で長椅子の両サイドの並べられた大量の鉢植えを見た。レモングラスだろうか? とてもさわやかな香りがする。
「神の赦しなら得たが」
神父はぬけぬけと言う。
船長がいまにもキレそうになっているので、船医はいたって真面目に言った。
「草も生えないわね」
船長が忌々しそうに重たい口を開いた。
「ここでは主の前に私が聖書だ。ここにいる以上は守ってもらうぞ」
神父は嘲笑する。「おまえは正しい。ここではおまえが神の代行者だ。しかし、おまえは神ではない」
「このドグサレ神父が……!」
ついに船長の堪忍袋の緒が切れた。
「神に仕える船の主よ。おまえにも懺悔の場は必要だろう?」
フレシエッタは先祖代々由緒正しくカソリックだ。彼女が何も言い返せないのをいいことに、神父は気分よく説教を続ける。
「皆が満足していれば誰も争わない。どれだけ貧しくとも、満腹にさえなれれば人の心は満たされる。農業と空腹を満たすためにいかに合理的に自然を破壊して、それと調和して共存してゆくか」
神父はそこで一息ついた。
「……戦争も一緒だ。農地を増やすには侵略するしかない。それは平和のための戦争だ。違うかね?」
「否定できるわけがない……!」
「安心しろ。組織は教会と政治、軍需産業のよりあい所帯だからけっして一枚岩ではない。根幹の部分で矛盾している。そしてそれが正常な社会のありようだとわたし個人は信仰している」
神父は聖書を抱いた。
「火を燃やすことはできない。聖書にもそう書いてある」
「……では、リョウコ・シンジョーへの扱いはどうされますか?」
船長は歯を食いしばりながら判断を仰いだ。
「傷つけた。しかし知らなかった。過失に対していかなる罪でどう罰する? 無知は神の大罪には含まれない」
神父は十字架を遠い目で見つめた。
正論に、女船長はただ黙ってうなずくことしかできなかった。