一章【女たちの王国】(9)
船があまりに大きく、構造も非常に特殊なため、ヤヌスは香港の港には直接接舷できない。
乗下船と物資搬入は通船や連絡船で行う。水や燃料は補給船が横づけしてポンプ作業を行う。すでに夜だ。
別に船から一歩も出なくても、ビクトリア・ハーバーはデッキからでも十分に楽しめる。
ド派手なネオンライトとイルミネーション、林立する超高層ビルから天に向かって放たれる幾条ものレーザー光が、日本とはまるで異なるアジアの混沌の顔をのぞかせている。
ありとあらゆる色彩に満ち溢れ、静かに揺れる海面の上に描かれた鏡像はまるで権力に翻弄されてきた伝説の美女、楊貴妃のように妖艶で蠱惑的だ。
美しすぎる女は不幸な末路をたどると、歴史が証明している。
だからこそキツネは、快活な女は好みではない。不幸こそが美人の必須条件だと信じており、そういう女を幸せにしてやりたくてたまらない。しかし、そうしたキツネ好みの女との相性は、残念ながらいつも最悪だった。
キツネは幻想的な夜景をぼんやりとながめながら、女のことばかり考えている。船体にもたれて咥えた煙草に火を点け、深々と吸い込み、鼻と口から白い煙を吐き出す。年齢不相応に軽薄な茶髪に無精髭をはやしたあからさまにやる気のない表情。ツリ目だけが目立ち、全体的に印象に乏しい顔だ。
片耳に装着したインカムが着信を拾った。
--木田先生。搬入準備できたよ。ナイトクルージングはどうね?--
「綺麗なオネーチャンと旨いワインがありゃ満点なんだがね。飲んでるわけにもいくまい」
通船のエンジンが停止した。何本かのロープが投げ出され、ヤヌスの作業員らが手で引っ張りながら係留ボラードに固定してゆく。防舷材のタイヤが接触した。
洪英文のおつかいが遥か下からキツネを見上げていた。
--木田先生はいつも太っ腹ね。多謝--
「武器商人の情報料が安くなかったからな。まあ、おかげさまでこちらもいつも助かってるよ。ところで現地の人から見ていま香港情勢はどうなんだい?」
キツネの発した現地の人という言葉に、相手は不思議そうに返す。
--わたしは東北出身のしがない船乗りだよ。それに香港のことならあなたたちの方が詳しいね--
キツネは頭を掻いた。中国国内では報道規制が行われ、インターネットも検閲されている。ドンペイ――中国東北地方の人間は、中国人という意識がとても乏しい。
しかし、イギリスによる香港返還に端を発した民主化運動とその弾圧の事実は、国民の大半にまともに伝えられていないようだ。
それでも相手は天安門事件を経験している世代だ。メディアが何も報じなくても察しはついているのだろう。
本船への積み込み作業が終わるのをそれぞれ見届け、ふたりは別れの挨拶を交わした。
「それじゃ世話になったな。再見」
--一路平安--
繁栄の時代ならとっくに終わった。あとはただ衰退してゆくだけだ。
極東アジア唯一の武器市場は、これで店じまいとなった。