一章【女たちの王国】(8)
何日か経過し、客船ヤヌスは香港の港湾に錨を投じた。まだ現地時間で午前九時だが、ここは日本よりもさらに夏だ。沖縄以上に暑い。空気の匂いがどこか日本と違う。風が食用油めいた香りを含んでいる。
涼子は救命艇としての役割も兼ねるオレンジ色の通船で他の旅客らとともに香港の土を踏んだ。
いささかくたびれたダークスーツの老人が涼子をポートで出迎えた。
市街地では、雑踏に押しもまれ、人混みをかき分け、ふたりはどうにか適当な喫茶店の入り口に潜り込めた。
スタバっぽいがスタバではない小奇麗な店だ。
店内は意外に空いていて、そこでふたりは小さな丸テーブルを挟んだカップル席についた。涼子は広い窓ガラス越しに改めて通りを見返した。
おしゃれなコスメショップが軒を連ねる目抜き通りは車両が一台も通行できないほど人があふれかえっている。おしゃれではあるが、ビル看板やディスプレイが現代的過ぎて、一見してアジアの外国とは思えない。
もっとも、原宿・表参道などもまた、欧米人たちからは同じように見られているのかもしれない。
かつて香港は、一世紀以上も前にイギリスが清国から略奪し、地名すらなかったさびれた漁港から東洋の根拠地となるまで大切に育ててきた。
六〇〇万以上にも及ぶ香港人のほとんどは戦乱から逃れてきた難民たちの末裔で、都市の繁栄を成功させてきた精神の根底には政治権力への強い不信がある。
老人、洪英文は、普段は歌舞伎町で中華料理店を営んでいると言った。新宿における在日香港人互助会の頭で、香港黒社会の顔役でもあり、キツネとは古い顔なじみだ。老人はこの土地について語る。
「中国に国際的信用などない。国が入れ替わるとき、財産を略奪し、焚書し、なんの責任もとらなかった集団に過ぎない。なぜなら彼らには中華王朝しか世界がなかったから」
「香港は中国じゃないの?」
涼子はたずねた。
「共産党は『一つの中国』を謳っているが、我々の考えとは異なる。しかし、漢民族は『何も把握していない』からなんだってやる。東西南北、国内外の漢民族が好きにふるまい、党は何も知らない顔をする。世界は中国の一部と当たり前に信じている。だから香港だって庭同然の扱いだ」
老人は甘い緑茶をすすりながら深く嘆く。
「我々はモルモットの平等など不要だ。いまの中国は、百年遅れの早すぎた未来。政治的な都合が現実よりも上にくる。党が黒と言ったら白いものでも黒い。それが正しい共産主義」
「それで、わたしらには協力してもらえるの?」
詳しい事情を知らない涼子は小首をかしげた。
「日本の姑娘。我々には百年先の投資を行う余裕などもはやない。経済はマカオと深圳に奪われ、同胞の多くが海外に脱出し、黒社会もいまや同じ香港人を迫害することで共産党から日々の糧を得なければ存続できない」
「よくわからないけど、キツネから申しつかってる。倍額を支払う。あなたたちに迷惑はかけない」
「それでいいよ」
洪は微笑んだ。