高天原の人たち
立派な白髪に黒縁のメガネをかけた老人の男性が歩いている。
「おや、こんなところに女の子か」
「…こんにちは」
「珍しいね。若い子がここを歩いているのは…君は亡くなってるのかい?」
「いえ、死んでないんですが、急に連れてこられて…」
弥生の答えに、彼は眉を少し上げた。
「そんなこともあるんか…」
「あの…あなたは…?」
「僕は、ずいぶん前に死んで、ここに来たんだけど…色々気になることがあってね。しばらくここにいさせてもらってるんやけど…」
「気になること…」
「うん。ここには、成仏してない偉人がいっぱいいて、答え合わせができるから…」
ポケットに両手を突っ込んで、どこか意識は遠くをみているような、静かな老人だった。
「君のような若い人にはもう読まれないのかもしれないけど、僕は歴史小説を書いていてね…そうか、死んでからずいぶん時が経ってしまったのか」
悲しそうに語尾を弱まらせる老人に、弥生は申し訳ない気持ちになった。
「あの。私、しばらくしたら戻るから良かったら名前を教えてもらえま…」
「定一!」
弥生の後ろから大声で誰かが声をかけた。
振り返ると、大河ドラマに出てくる人のような格好をした爽やかな男の人がこちらに向かって手を振りながら走ってきた。
思わず「お侍さま」と呟きたくなるような格好の良さだ。
頭は青くそられているのに、こんなに似合う人がいるのか。
彼は何故かわからないが、すれ違う時にふっと弥生に微笑みかけた。
「定一。昨日の続きをしよう。お前の考察はなかなか面白かったが、間違いだらけだ」
「そうでしょうな、歴史書なんて勝者の都合の良いことばかり書かれているから」
「うむ。昨日はわしの初陣の話までだったな」
「そうでしたな」
爽やかなお侍さまは、老人の肩を抱いて連れて行ってしまった。弥生はまた一人になった。
「名前聞けなかったな…」
爽やかなお侍さまは「ていいち」と呼んでいた。帰ったら検索してみよう。
それよりも、この世界は本当に綺麗だ。全てが完璧な形を成している。森の中に入ると、どこからか笛の音が聞こえてきた。引き寄せられるようにそこへ向かうと、美しい人が踊りを踊っているのが見えた。
「あらっ」
目があったら、彼女は踊りをやめてしまった。するとどこからか流れていた音楽も途切れた。
「あなた、弥生ちゃんね」
「え、なぜそれを…?」
彼女は美しい汗を、透けた白い布で優雅に拭うと弥生の前にやってきた。
「私の夫のサルタヒコがあなたを迎えにいったと聞いていたからね」
「さるさんの奥さん…」
「ええ。私はアメノウズメと言います。てんちゃんは、私をうずめって呼んでるわ」
「うずめさん…」
「ええ」
爽やかな美人さんだ。世界中が彼女を見ているだけで幸せな気持ちになるよう人だった。
「いつここへ来たの?もう色々散歩はした?」
「いえ…さっきおじいさんとお侍さんに会ったくらいで全然…」
「そう!じゃあ私が少し案内してあげるわ。ここのことも説明も兼ねてね」
「あ、ありがとうございます」
彼女の服装は、屋敷で見た人たちよりも軽そうだった。
「私は踊りを専門としているからね、普段から踊り子の衣装なのよ」
「なるほど…」
また心を読まれた。神様は侮れない。
「ここは日本の地上でいう『神道』という宗教の神々がいるところなの。まあ多少仏教と混ざり合ってしまっている所があるけど気にしないで。けれど基本的には、古事記や日本書紀を読んでいたらわかると思うけれど、天皇家の祖とされるアマテラスをはじめとする神々と、サルタヒコなどのニニギが天孫降臨する以前からこの国にいる土着の神々もいるわ」
「あ、でもサルタヒコさんはここにはあまり長くいられないって」
「そう、やはり土着の神は地上に社があるから、ここにはあまりいづらいようなの。私もサルタヒコの近くに居たいのだけれど、逆に私は地上にはいづらくて、会いたい時はその時々会いにきたり会いにいったりしてるのね」
「なるほど…なんかでも、ちょっと寂しいですね」
「そうね。まあ、2500年も一緒にいるから慣れてるわよ」
うずめはウインクして弥生に笑いかけた。
「あと、てんさんが、成仏してない歴史上の偉人もたくさんいるって聞いてたんですけど」
「ええ。ここはそういう人たちも多く止まってるわ。例えばさっきあなたが言っていたおじいさんは司馬遼太郎という名前で活躍した歴史小説家の方でね。亡くなったのは少し前なんだけれど、ここに来て色々調べたいことがあるって色んな人に話を聞いて回ってるわ」
すると突然浜のようなところが現れた。波が浜に打ち付けている。不思議だ。
「あ、うさぎ」
「あれは、因幡の白兎よ」
「うずめ殿。ごきげん麗しゅう」
白いうさぎが目の前にぴょんぴょんと現れた。
「地上の時が止まったから、なむちがこちらへ来てるというので、私もたまには遊びに来ようかなと」
「あら、なむちも来てるのね」
「あ、さっきてんちゃんと飲むって言ってましたよ」
「飲むのかぁ…」
うさぎは困ったような仕草をした。
「あの人お酒飲んだら暴れるからなぁ」
「大丈夫よ、ここは地上じゃないんだから」
「そうですかねぇ…でも、心配だから僕も行ってきます」
「そうね。行ってらっしゃい」
うさぎは素早く森の奥に走っていった。
うずめと弥生はその姿を見送っていたが、
「実はうさぎも飲みたいから行くのよ」
とうずめがぼそっとつぶやいた。
「あ、そうなんですね」
「動物はみんな酒狂いなの。あ、あそこにもきた」
うずめが見た先には大きな亀がいた。
「もしかして、あれつて」
「そう、浦島太郎のね」
「すごい!有名人に会った気分」
二人はのろのろとやってくる亀の方に歩いていった。
「おやこれは、うずめ殿。おひさしゅう」
「珍しいね、あなたがくるのも」
「てんちゃんが時間を触るのも珍しいですからな。気が向いたから遊びに来ましたわい」
「でも亀さん…」
うずめはさっき体を拭いていた衣で亀を拭いた。
「あなた屋敷に入る前にすこし禊をしないとダメね」
「はあ…やはりそうですか。最近は海が穢れておりますからな」
「そうね。ごめんなさい、私あまり今の状態のあなたを触ることができないわ」
「お気になさらず、この衣をかけてくださっただけで充分です。とりあえず屋敷まで行って禊して参りますので」
「ええ。また後でね」
「はい」
そうして衣を上にかけた亀はまたノロノロと歩き出した。
「ねぇ、弥生ちゃん。あなた誰か会いたい人とかいないの?例えばなにか大変なことをしたような…」
「あー…」
弥生は日本史にもあまり興味はなかった。
「織田信長…とか?」
「あー、あの人は死んで怒りながら、さっさと転生したからとっくにいないわねぇ」
「まじか、じゃあ…坂本龍馬とか?」
「あの人もねぇ、『次生まれ変わったら世界中を旅するぜよ!』ってさっさと」
「ってことは、この世に未練のない人が留まってる可能性が高いってことか」
「そうねぇ。例えば…現世に愛想をつかした人…ひじりちゃんもそうね。聖徳太子ね」
「あ、さっき会いました」
「そうよね、さっき定一さんと話してたのが、明智光秀ね。彼も色々絶望して亡くなってたから、もう生まれ変わりたくなかったらしいんだけれど…定一さんに会ってイキイキしてるからなんかそろそろ生きる希望が湧いてそうね」
「でもそれじゃあ500年もここにいたってことですか?」
「そうなるわね。ここはある意味時間という概念のない場所よ。私たちは地上の過去には戻れないけれど、今は過去であり未来は今なの」
意味がわからなかった。
「まあ、あまり深く考えなさんな。あなたはここで好きなようにすればいいから」
うずめはふわっと跳ぶと弥生の前に立った。
「誰か会いたい神か人はいない?具体的な人じゃなくても、イメージとかがあれば」
「んー…」
日本史も日本神話も避けていたから、全く思いつかない。
「あなた、好きなものは?」
「好きなものは…音楽…とか?」
「音楽ね。芸能の神様は私だけれど、だれか他にいたかしら…」
うずめはしばらく考えて一人思い出した。
「祇王という人がいるわ。平清盛という男の寵愛を一時期受けたのだけれど、突き放されてしまって、彼女は仏門に入ったのだけれど、彼女は当時の人には珍しく天命を全うしたから、長生きをしてね。今も小さな彼女の庵でひっそりといるわ。もう来世には興味ないのね。900年近くそこにいるのだもの」
「900年…!」
うずめが言った小さな庵はすぐに見えてきた。そこに石のような老女が座って眠っていた。
「祇王。珍しいお客さんを連れてきたわよ」
「…この声はうずめ様ね」
目を開けると、老女だった彼女はみるみる若返り、美しい若い女性になった。
「す…すごい…」
「あら、今日は気分がいいのね。とても綺麗よ」
うずめは縁側に腰掛けた。
「そちらのお嬢さんは?」
「てんちゃんが連れてきた人の子よ。音楽が好きなんだって」
「そう…」
祇王は弥生を上から下まで何回か見ると、少し困ったように眉を下げた。
「白拍子にはなれそうにないわ」
「やだ、祇王。この子は多分白拍子にはなる気もないわよ」
「あら、そうなん?」
「ええ、第一現代に白拍子という職業はないのよ」
「あら、残念…まあ、白拍子として生きてもいいことは何もないものね」
「…祇王」
うずめは祇王の手を握った。
「そう、悪く言わないで」
「ありがとう、うずめ様」
祇王は少し涙を溜めて頷いた。
「あなたもお掛けなさい。お茶でも入れましょうかね」
すると祇王はまた少し老いた。さっきまでは若い美人だったのが一気におばさんになって立ち上がった。
「いいのよ、祇王。あなたはそこで座っててちょうだい。私が入れるわ」
「そんな、うずめ様にさせるわけには」
「気にしないで、ほら弥生の相手でもしててちょうだい」
「弥生…」
祇王はさっき座っていた場所に戻ると、また老いた。
「あなたが生きていた頃って、どんな時代だったんですか?」
「ん?んー…」
祇王は少し考えると、静かに語り始めた。
「生きづらい世の中だった。戦も多く、京の都は貧しく、病もよく流行った。仏門に入ってからは俗世とは離れた日々だったけれど、私が生きている間に良くなることはなかったねぇ」
「平清盛って、どんな人だったんですか?」
「あのお方はねぇ…素敵な人だった。女の敵だけれど、それぐらい好きになってしまうところがある人だったから…」
祇王の目にまた涙が溜まった。そしてまた若返った。物凄く美しい人が、美しく涙を浮かべている。さっきうずめが言った言葉が頭をよぎった。『今は過去であり未来は今』
「その通り。いまだに私は、自分の老いと彼の方への想いに縛られてここに留まることしか出来ない…」
「祇王さん…」
白く華奢な手が、ぎゅっと首から下げられた数珠を握っている。それがとても痛々しくて、弥生はその手に触れた。
「お茶が入ったわよ、あら祇王。今日はたくさん若返るのね」
「いやだわ、若い子がいるからかしら」
戻ってきたうずめに、祇王は照れ臭そうに笑った。
「そろそろ私も転生しようかと思うのだけれど、勇気が出なくってね」
「どうして?」
「清盛様に会ったらどうしようって!次会ったら本当に、殺してしまいそうで」
「それはダメね。人殺しは犯罪よ。問答無用に黄泉行きなんだから」
「そうなのよ、あんな男のために黄泉に行くのはもったいないわよねぇ」
「そうよ。あなたはまだまだここにいていいのよ。傷が癒えるまでここにいなさい」
「ありがとうございます。うずめ様」
「ううん、当たり前よ」
祇王はそれからずっと若い姿のままだった。
その姿は本当に美しくて、もし現代に生きていたらトップアイドルかモデルか、女優さんだろうなぁと思った。
「祇王。もしよかったら、少し舞ってくれないかしら?」
「あら…もうずいぶん舞っていなかつたから、舞えるかしら…」
「舞えるわよ。三つ子の魂百までよ」
「そうですかねぇ」
そう言いながら祇王は立ち上がって、ふわりと縁側を降りた。
彼女が舞を始めると、どこからか雅楽の音楽が聞こえてきた。圧巻の舞だった。
重力を感じさせない彼女の動きが、まるで天女のように見えた。
「素晴らしいわねぇ」
「永遠に見てられますね…」
舞を終えると、恥ずかしそうに祇王が戻ってきた。
再び座布団に腰掛けると、また老女に戻った。
空は少し紫色と橙色に染まり始めている。
「そろそろ、夜が来るわ」
「おや、そうですか。それではお帰りなさったほうがよろしいですな」
「そうね。弥生も夜は屋敷にいたほうがいいわ。迷子になると大変だからね」
「うずめ様、弥生。今日は会えてよかった」
「こちらこそよ、祇王」
「祇王さん。お美しかったです」
祇王は笑顔になるとまた一瞬、若くなってすぐに戻った。
「じゃ、弥生。そろそろてんちゃんの屋敷に戻りましょうか」
「はい」
うずめと弥生は、アマテラスの屋敷に向かって戻っていった。