9.女の人が苦手
「シュヴェーアさん、女の人が苦手って本当なの?」
彼に惚れた客の女性が出ていってから、改めて尋ねてみる。
するとシュヴェーアは、片手で乱れた前髪を整えながら、「……事実、だ」と答えた。
彼の顔を見れば、その言葉が嘘でないことは明らか。本心無くしてここまで見事な演技をできるわけがない。もしそんなことができるのなら、俳優として生きていけるだろう。
「でも、私や母さんのことを嫌がったりはしないわよね? どうして?」
踏み込み過ぎるのも良くないかと思いつつ、なんだかんだでさらなる質問を重ねてしまう。
「……パン」
「え?」
シュヴェーアは質問を重ねたことに腹を立ててはいない様子。笑ってはいないが、不愉快そうな顔をしてもいない。そのことに安堵しながらも、彼の発言の意味不明さに私は困惑する。
「……パンを、くれただろう」
灰色の瞳に見つめられたら、胸の内でよく分からない感情が巻き起こった気がした。
けれどそれは今に始まったことではない。偶然知り合って、彼が家に来て、それから現在までに幾度か同じような感覚を覚えたことがあった。
「え、えぇ」
「……それゆえ、嫌いでは、ない」
いつもシュヴェーアは最低限の言葉だけで発言を作ってゆく。そのため、一文からすべてを理解するのは難しい。が、前後の発言も合わせて考えれば、彼が何を言おうとしているのか、漠然とは見えてくる。
「パンをくれる人は女性であっても苦手ではないということ?」
「……好きだ」
ばくん、と、心臓が豪快に跳ねた。
彼はただ「パンをくれる人は女性であっても好き」と言っているだけ。私のことを言っているわけではない、いや、だって、そんなわけがないではないか。
それでも私は少し取り乱しそうになった。
冷静さを欠いておかしなことを言いそうになるのを、何とか堪える。
「……どう、した?」
「ごっ、ごめんなさいっ」
「……何があった」
「き……気にしないで。大丈夫、大丈夫だから」
あぁ、もう! どうして! せっかく穏やかに話ができていたのに、私ったら、あんな何でもない一言を聞いただけで混乱するなんて。なんて馬鹿なの! なんて自意識過剰なの! 彼が私をそんな目で見るわけがないじゃない。それは分かっていたはずじゃないの。それなのに変に意識して! もう!
……と、私の心の中は乱れている。
そんな心の乱れを断ち切るように、忙しい時間がやって来た。
店のカウンターには長い行列。皆、日頃見かけない珍しい茶葉を買おうとして、良い餌場を見つけた蟻のごとく並んでいる。接客しているダリアは、次から次へと客の相手をしなくてはならず、数時間働き通しだ。
「母さん、私、代わるわよ? 腰痛くない?」
「もう! 人前でそんなこと言わないでちょうだい!」
私は気遣いのつもりで言ったのだが、話題のチョイスが悪かったのか、怒られてしまった。しかも、私の発言を聞いて並んでいる人たちが爆笑したので、ますます嫌な顔をされてしまうという結末。悪気は微塵もなかっただけに、この結末は悲しい。
「ごめん。じゃあ、何か一つだけでも手伝うわ」
「今は必要ないわ。セリナはシュヴェーアさんと遊んでいて良いわよ」
「そう……」
手伝いの申し出すら断られてしまった。こんな悲しいことが世によくあるだろうか。
それにしても、人間とは贅沢な生き物だ。色々頼まれたりしてこき使われると嫌になって相手に腹が立つのに、何もしなくていいと言われたら言われたで切なくなるのだから、なんてワガママなのだろう。
「はーい、いらっしゃいませー」
「できれば安眠効果のある茶がええのう」
「リラックスできるものですねー!」
「そうじゃ。それでよろしく頼みたいのう」
とはいえ、断られてしまったものは仕方ない。
無理矢理出ていくのも変だから、家の中に引っ込んでおくことにした。
◆
その日の晩、営業が終了したぐらいの時刻に、ノックが響いた。
それを受けて扉を開けたのはダリア。
「夜分に失礼致します。少しよろしいでしょうか」
私は数メートル離れた位置から様子を確認する。
訪ねてきたのは、どうやら男性のようだ。それも、比較的良い身形をしている人。顔の細やかなところまでは視認できないが、年齢は四十代か五十代くらいだろうか。僅かに白髪の混ざった頭が、年齢を重ねているのだなと感じさせる。
「キッフェール家より参りました」
男性が発した言葉に、私はドキリとする。というのも、キッフェール家というのは、私がこの前まで婚約していた相手の家名なのだ。
「セリナ・カローリアさんの婚約解消の件で少々お話がございます」
「あぁ、そうですか」
ダリアの返事は物凄く冷ややかな声だった。
私の母は血の気が多い。怒って暴れ出さなければ良いのだが。
「結構です。帰って下さい」
私と同じくらいの位置から様子を見ていたシュヴェーアは「……はっきり言うな」と呟いていた。
「し、しかし……お母様、少しセリナさんとお話をさせていただきたいのです。事情を説明させて下さい」
「結構です。すぐに帰って下さい」
「そ、そのようなわけには参りません……! 彼女に謝罪させて下さい」
「結構です。お帰り下さい」
訪問者は額に汗の粒をいくつも浮かべながら、何度も頭を下げている。しかし、ダリアは一歩も引かないし、怒った顔のままだ。とはいえ、これだけ何度も頭を下げるというのは、訪問者の男性もなかなか立派な心の持ち主なのだろう。普通、格下相手に頭を下げるなんて嫌がりそうなものだが。
「待って、母さん」
段々男性が気の毒に思えてきて、私はついに口を挟んだ。
「話くらいなら聞いてもいいんじゃないかしら」
「駄目よ、セリナ。彼は貴女を捨てたのよ? 今さら優しくなんて、する必要ないわ」
もちろん、私とて、彼の自分勝手な理由での婚約解消を許したわけではない。この人生における嫌な思い出の一つとして、きっと未来まで残り続けることだろう。
「でも、こんなに頭を下げてくれているじゃない。話だけなら聞いても」
「分かった。分かったわ、セリナ」
ダリアはそう言ってから、冷ややかな視線を男性へと向ける。
「……ではどうぞ、こちらへ」
◆
男性の話によれば、私の婚約者であったアルト・キッフェールは、『大切な女性』なる人に振られたそうだ。原因は、婚約者がいることを隠していたから。向こうの女性は、私の存在は知らなかったらしい。それで、今になって「実は婚約者がいた」と知った彼女は激怒したのだとか。
「……随分、都合のいい……話だ」
良い身形をした男性が一連の流れを話し終えた後、一番に口を開いたのは、意外にもシュヴェーアだった。
「ど、どういう意味です? 警備の方?」
ちなみに、男性には「シュヴェーアは警備係」と説明してある。
誤解を防ぐために。
「……二人に、手を出し……二人を失う……典型的な、欲張りだ」
「は、はぁ」
こんな時に限ってシュヴェーアはよく話す。
ある意味ではこの件に一番無関係なのに、忌憚のない意見を述べている。
「だが……婚約解消、は、セリナから、すれば……幸運……だったやもしれんな……」
お願いだからシュヴェーアは黙っていて、という気分。
そこまで厳しい意見を求めてはいない。
「すっ、すみませんっ。この人、少しお堅いところがあるので。放っておいて下さいっ」
「あ、いえいえ。お気遣い感謝します」
こちらから視線を合わせると、男性は恥ずかしそうに会釈する。慎ましく、腰の低い人だ。印象は悪くない。アルトと比べても、いくらか彼の方がまともである。




