38.大切な存在
「そういえば! 知っていますか? 知り合いの近所の方の話なのですけど」
「知りません」
ドラセナの近所の人の話なんて、私が知っているわけがないではないか。
「奥さんの方から聞いた話なのですけど、旦那さんが領主をしている方で、ほぼ一日中家にいるらしいのです。滅多に出掛けないとかで」
生き生きした表情でドラセナは話す。話を遮るのも何なので、私は笑顔で聞いておく。この後何か用事があるわけでもないので、聞き役に回って時間が潰れても、さほど大きな問題はない。
「毎日イライラして大変なんですって!」
「へ、へぇー」
気の利いた返事は思いつくことができない。
「自分は家事があるのに、旦那さんは一日中ほとんどゴロゴロ。腹が立って腹が立って仕方ないみたいですよ」
「人を雇わないんですか?」
旦那さんが領主なのならば、ただの無職ではないわけで、それなりに収入はあるのだろう。ならば、一人二人雇って、その人たちに家事を頼めば良いのではないだろうか。そうすれば、奥さんもそこまで忙しい生活をしなくて済むのに。
「領主といってもそんなに大きな家ではないみたいで。だから、多分、人を雇うほどのお金はないのではないでしょうか」
「そうなんですね……」
何の話をしているのだろう、私たちは。
「一日中家で遊んでいるくせに、ご飯にいちゃもんをつけることだけは一人前! そう言って、奥さんはいつも怒っています」
「た、大変ですね……」
主婦の文句言い合い大会に参戦した気分だ。
もっとも、そのような会には一度も参加したことがないのだが。
だが、ドラセナの話を聞いていて気づいたことがある。それは、結婚は身分に囚われず考えた方が良さそうだな、ということ。
比較的安定した収入のある領主と結婚しても愚痴だらけの結婚生活になることもあるのなら、もはや身分など何の意味もなさない。少なくとも、身分は夫婦関係を救ってくれるものではないのだろう。
当然、身分が違い過ぎる人とは結婚しづらいので、身分もある程度の指針にはなってくるわけだが。
ただ、それに目を向け過ぎるのは問題なのだろう。
個人としての相性を重視した方が良いのかもしれない。
「それとですね、もう一人の知り合いの奥さんの話なのですが」
「さっきの話とは別の人ですか?」
「はい。その方は、子どもが八人もいて、生活が苦しいみたいなんです」
「へぇ……大変そうですね」
子どもが八人には驚いた。
多過ぎやしないだろうか、さすがに。
確かに、地域によれば子だくさんが多い地域もあるけれど。でも、大抵多くとも五人程度。それが普通の範囲だ。八人は驚きの人数である。
「旦那さんは兵士をしていて、定期的に家にいない時があるんです。その間、奥さんは一人で八人の面倒をみなくてはならなくて、それでいつも不満を漏らしていらっしゃるのです」
子どもが多過ぎる兵士……。
「その家の子どもたちはイタズラがかなり多くて、困っているみたいです。他人の畑に入って作物をかじったり、他人の所有物である家畜の体に泥で落書きをしたり、すぐにイタズラするらしくって」
作物を勝手にかじるのは、もはや犯罪の域ではないだろうか。いや、厳密には犯罪にはならないのかもしれないけれど。でも、普通はそんなことはしない。他人の作った物を勝手に食べたりするのは、よほど食べ物に困っている飢え死にしかけの人くらいのものだろう。あるいは、悪質な泥棒か。
「かなりやんちゃですね」
「そうなんです。そのたびに謝りに行って、大変みたいで」
教育が悪いのではないだろうか、と、少し思ってしまったりする。
そんな風に考えてしまうのは、私が子育て経験を持たない若者だからかもしれないけれど。
結婚だけでも大変だというのに、子育ても入ってくるとなると、それはもう凄まじい苦労がありそうだ。今はまだ想像し難い世界だが、それでも、苦労が多そうであることだけは想像がつく。家事をこなし、子どもの面倒をみて、そんな生活が楽なわけがない。
「何だか大変そうですね、大人って」
「セリナもそう思いますか! 本当に、同感です! それが言いたくて!」
ドラセナは嬉しそう。
返せるようなものは何も持たない私だからこそ、彼女が嬉しそうにしてくれているとホッとできる。
「えっと、では、そろそろ帰りますね」
「ドラセナ? もう?」
「はい。あまり長時間出歩いていると母にごちゃごちゃ言われてしまうので」
「そうなんですか。ドラセナの家も大変ですね」
私は自由な親に自由に育ててもらった。それゆえ、行動についてとやかく言われた経験はほとんどない。でも、私は、ついこの前まではそんなものなのだと思っていた。よその家庭のことなんて知らなかったからだ。私は私が知っている我が家のことしか考えに入れず、これが普通の家庭の姿なのだと理解していた。しかし、ドラセナと出会って話すようになってから、考えが変わった。我が家の自由さは当たり前にあるものではないのだと学んだ。
「では今日はこれで。セリナ、話してくれてありがとうございました。楽しかったです!」
「こちらこそ」
こうして、ドラセナとの楽しい時間は終了した。
ドラセナが帰ったと思ったら、入れ替わりでシュヴェーアがやって来た。
「……終わった、のか?」
「えぇ」
終わるのを待ってくれていたのだろうか?だとしたらちょっぴり意外。
「……楽し、そう……だったな」
「えぇ! 楽しかったわ!」
シュヴェーアはそっと目を細め、ゆっくりと頷く。
今の彼は父親のようだ。包み込むような温かさを全身から放っている。色で例えるなら、暖色系の雰囲気をまとっているような感じだろうか。
「……何より」
あぁ、どうして。なぜ、そんな嬉しそうな顔をするの。私のことなのに、彼のことではないのに。
「ところでシュヴェーアさん。農家の手伝いはどうだった?」
「……楽しかった」
「へぇー。手伝いを楽しかっただなんて、さすがね!」
私だったら、手伝いをさせられ続けていたら挫けそうになったと思う。逃げ出しはせずとも、愚痴の一つくらいは漏らしてしまったに違いない。少なくとも、「楽しかった」とは言えなかっただろう。私にはそこまでの広さはない。
「……セリナは、彼女と、仲が良いな」
「ドラセナのこと?」
「あぁ……凄く、仲が良さそうに、見える……」
彼の言うことは的外れではない。
実際、ドラセナと私は友達で、仲良しだ。
「初めてできた友達なの。大切な存在よ」
「……それは、良いことだ」
「もちろん、シュヴェーアさんも大切な存在よ!」




