2.報告と執着
「ただいま、母さん! この人に食べ物をあげて!」
山道で偶然出会った全身を甲冑に包んだ男性。空腹のせいで弱りきっている彼を連れて自宅へ戻り、一人過ごしていた母に向けて私はそう放った。それを聞いた母は、飲んでいたお茶を凄まじい勢いで噴き出す。
「ゲホッ、ゲホッ……! い、一体何なの? どういう話……?」
噴き出したお茶で濡れた服や机を布で拭きつつ、母——ダリア・カローリアは尋ねてきた。
「この人ね、お腹が空いているみたいなの。だから食べ物を分けてあげてくれない? ちょっとでいいから」
「ま、待って待って……セリナ、何を言っているの。話が掴めない」
ダリアは戸惑ったような顔をしながら、あちらこちらを拭いた布の唯一まだ濡れていない端で、最後に指先の水分を拭い取る。若い娘の肌のように滑らかな布が、指の間をするりと抜けていた。
「結婚の打ち合わせをしに行ったのではなかったの……?」
そういえば、そういう話で出掛けたのだった。
「婚約は解消されてしまったわ」
「そう、婚約は解消——って、え!? どういうこと!?」
ダリアは信じられないような目でこちらを見てくる。
私と同じ明るめの茶色をした瞳は、小刻みに震えていた。
「な、何があったというの……?」
きっとこうなるだろうと思っていた。ダリアは私の結婚を楽しみにしてくれていた——だからこそ、解消になったなんて聞いたらショックを受けるだろう、と。そしてそれは現実となってしまった。
でも、仕方がなかったのだ。隠してはゆけないから。
「母さん、私だって正直よく分かっていないのよ。いきなり過ぎて困ってしまったわ。でも彼、本当に好きな人がいるらしいの。それで、彼女と結婚したいんですって」
全身甲冑の男性は私の少し後ろで棒立ちを続けている。
彼にまで婚約解消の話を聞かれることになるとは、少々辛いものがある。言い広めたりしない配慮のある人であれば良いのだが。
「な、何ですって!? 好きな人! セリナ以外の女がいたというの!?」
先ほどまで水分を拭いていた布を、ダリアは床に投げつけた。
「落ち着いて母さん。怒っても意味はないわ」
「怒るに決まってるじゃない!」
「謝罪の意味も込めてお金はくれるって。母さん、それを貰えば、生活費の足しになるわ」
「金で解決する気なの!? そんなの、余計に腹が立つじゃない!!」
母は荒々しくなっていた。私が言葉をかけても、もはや彼女を止めることはできない。父から昔聞いた話によれば、彼女は若い頃から結構血の気が多かったようだから、今の反応もらしいといえばらしいのだろうが。
「セリナ! どうして怒らないの!」
「……だって、怒っても仕方ないわ。それに、私と彼は好き同士で婚約したわけじゃないでしょ。あの人が好きだったのは、本当は、姉さんの方だったの」
私の婚約者であった彼は、村一個分くらいの小ささではあるが領地を持っている、それなりに良い身分の家の長子だった。ある時、姉妹でその村へ行ったことがきっかけとなり、知り合いになったのだ。だが、彼が最初に惚れたのは私ではなかった。彼が気に入ったのは、姉。けれども、姉はその時既に結婚相手が決まっていた。そのことを告げると、彼は言ったのだ。妹でもいい、と。
「でも……最近は親しくなってきていたじゃない」
「ちょっとはね」
でも、きっとこれは定めだったのだろう。
愛してもいない者同士が共に生きてゆくのは容易いことではない。愛している者同士であっても、夫婦となればよく揉めるのだから。
「けど、こんな急に! さすがにおかし——」
ダリアがそこまで言った、その時。
突如、甲高い大きな音が鳴った。
まさか、と思い、即座に振り返る。すると、床に倒れ込んでいる男性の姿があった。倒れた時の音が妙に大きかったのは、身にまとっている甲冑のせいだろうか。
「ごめんなさい。忘れていたわ。大丈夫?」
「……パン」
今にも息絶えそうな掠れた声で彼は漏らす。
この期に及んでまだ「パン」か。
とはいえ、このまま放置して婚約解消の方の話を進めていては、彼の命が危ぶまれる。即死はしないだろうが、万が一飢え死にしてしまったら大変だ。
「母さん、取り敢えず食べ物を貰える?」
「そうだったわね、セリナ。聞きたいことは色々あるけれど……今はパンを持ってくるわ」
◆
しばらくして、ダリアがパンを持ってきてくれた。
一目見て分かった。そのパンが近所のパン職人が作るパンの中では一番安価なものだということを。私や母がいつも食べているパンとは違うパンだ。
「こんなパンで良ければどうぞ」
ダリアはそう言いながら、甲冑の男性に小さな丸いパンを差し出す。
男性はそれをすぐに受け取ったが、直後、動きを止めた。安いものゆえ気に入らなかったのか、と、私は内心焦る。だが、どうやらそういうことではないようで、「……少しいいか」と私に言ってきた。しかも、私にパンを渡そうとしてきている。よく分からぬまま、私は一旦パンを受け取る。
すると、男性は甲冑の頭の部分を外した。
現れたのは整った顔立ちの青年。
「……すまん、パンを」
「どうぞ」
預かっていた安物のパンを返す。すると彼はすぐにかじりついた。
黙々と食べ進めていく男性の横顔を眺める。
中性的な顔立ちながら、弱々しさはなく、表情からは勇ましさすら感じられる。美麗な容姿を持ちながらも、どこか戦士のような雰囲気をまとっていた。
また、灰色の髪はセミロング程度の長さであり、後頭部で乱雑に一つに束ねている。手の感触だけで軽く集めて紐でくくったような束ね方だ。
「……もう、ないのか」
そんな彼は、あっという間にパン一個を食べ終えた。
「母さん、パンはまだある?」
何度も自ら「パン」と発していただけあって、食欲はかなりのもののようだ。まだまだ食べそうな顔をしている。
「えぇ。あるはあるけど」
「あげてもいい?」
「そうね。じゃ、取ってくるわ」
ダリアがカゴごとパンを持ってきた。
カゴと言ってもそこまで大きなものではなく、パンは六つほどしか入っていない。
「好きなだけ食べていいですよ」
意外にも、ダリアはそんなことを言った。
すると男性は「感謝」とだけ返す。
そして、すぐにカゴの中へと手を伸ばした。そうして手にした二個目も、ものの数口で食べきる。そして次、三個目へ。男性は一切躊躇うことなく、他人の家のパンを胃に入れ続けた。
その結果、数十秒でカゴは空になったのだった。