10.料理に挑戦
「それでですね……非常に言いづらいのですが、どうか、アルトともう一度やり直していただけないでしょうか」
やって来た男性の口から出たのは信じられない言葉だった。
彼が私を振ったのだ。彼が婚約解消を決めたのだ。好きな人がいるからなどという理不尽極まりない婚約解消を私は受け入れた。その矢先に「やり直してほしい」だなんて、よく言えたものだ。恥ずかしくはないのだろうか。
「すみません。私にはできそうにありません」
「謝罪はしっかりとさせます……! ですから……!」
「申し訳ありません。私、もう婚約解消を受け入れたので」
言いなりになるものか。女に振られたなんて知ったことじゃない。自分勝手に振る舞い周囲に迷惑をかけるような者は、一人寂しく過ごしていれば良いではないか。一度別れた女に今さら再び声をかけようとするなんて、彼には恥じらいというものがないのだろうか。
「これ以上お話することはありません」
「そう……ですか。分かりました。では失礼致します」
「ありがとうございました。さようなら」
「話を聞いていただいたこと、感謝しております」
この男性に罪はない。だから、男性に対してこんな風に冷たい態度を取るのは、申し訳ないと思っている。
だが、仕方のないことなのだ。
アルトのような男は、一度思い通りになると理解すれば、好き放題するだろう。これからもやりたい放題できる、と捉えるはずだ。
だから私は冷ややかな態度で接する。
そうすることが、私にできる唯一の抵抗だ。
キッフェール家からやって来た使いは大人しく去ってゆき、家には私とダリア、そしてシュヴェーアだけが残る。
「……何しに、来たのだろうな……」
「えぇ。ほんとそれね」
「……セリナの、婚約者は……そんな……愚か者だった、のか」
シュヴェーアの声はいつもと変わらず低い。美麗な目鼻立ちには似合わない、低く落ち着いた声。けれども、今の彼の話し方は、日頃と少し違っているように感じられる。というのも、今の彼はいつになく不満げなのだ。キッフェール家からの使いに腹を立てているような、そんな雰囲気をまとっている。
「……もしかして、怒ってくれているの?」
ふと思って、問う。
しかしシュヴェーアはすぐには答えない。俯いてじっとしている。
「シュヴェーアさん?」
「……そう、なのかもしれない」
数十秒ほどの沈黙の後、彼は小さく呟いた。
「……よく……分からない、が」
そんな風に述べるシュヴェーアは、己のことすらよく分からない、とでも言いたげな表情をしている。
きっと、自身の心も、完璧に見えるわけではないのだろう。
だがそれは仕方のないことだ。
人間誰しも、自分の心をすべて明らかにすることなどできない。己にしか見えない部分もあるだろうが、逆に、己には決して見えない部分というものも確かに存在する。
「ありがとう。私のことを気にかけてくれて」
「……気にするな」
独り言のように呟き、視線を逸らす。
その時のシュヴェーアは心なしか照れているようにも見えた。
◆
翌朝、私は唐突に思い立ち、シュヴェーアに手料理を振る舞うことにした。
……といっても、私の技量ではまともなものは作れない。
そのため、まずはダリアに相談してみる。するとダリアは妙に乗り気で、アイデアを色々考えてくれた。私の腕で作れるもので、シュヴェーアが美味しく食べてくれそうな物を、と、ダリアは熱心に思考してくれたのだ。
「パン粥もどきはどう? これなら作るのはそこまで難しくないわ」
「そっか!」
「それに、彼はパンが好きでしょう。ぴったりじゃない?」
「えぇ! そう思う!」
今はまだ早朝だ。シュヴェーアは起きてきていない。だが、じきに目を覚ますだろう。いつものペースであれば、だが。
「じゃあ母さん、用意するのは……」
「パン、調味料、湯、そして鍋。そのくらいで十分よ」
必要な物を集めたら、調理開始!
まずは鍋に水を入れる。そして、鍋ごと火にかけて、水を温める。ついでに軽く味もつけておく。その後、水が湯になれば、いよいよ千切ったパンを投入できる。まだ薄味の熱いスープにパンが入れば、ようやく料理らしい外観になってきた。硬そうだったパンも徐々に柔らかくほぐれてくる。
「もうひと頑張りね、セリナ」
「あとは何を?」
「最終的な味つけが必要よ。これを使うといいわ」
パンが柔らかそうな見た目になってきたタイミングで、ダリアは壺を二つ取り出す。片手で持てる小振りな壺だ。
「それは何?」
「うちの料理の決め手よー」
ダリアは二つの壺を台に置く。それから、両方の蓋を同時に取った。すると、ふわりと匂いが漂う。草のような、それでいて少しツンとした、不思議な匂い。
「こっちはネギュ味噌。そしてこっちはカーリックソースよ」
「へぇ……」
二種類とも、聞いたことがないし見たこともない。
「この二つを上手く投入して。間違いなく、急激に美味しくなるわ」
間違いなく美味しくなる。そこまで言うということは、よほど味の良い物体なのだろう。そうでなければ、そこまで自信満々とはいかないはずだ。
私は顔を壺に近づけてみる。
独創的な匂いが強い。が、確かに、食欲をそそる香りではある。
ダリアからスプーンを二本受け取ると、私は早速、壺の中にスプーンを突っ込んでいく。
何をどう使えば良いのかはまだいまいち分からないが、何事も挑戦することが大切。怯まず挑んでゆく、それが今の私にできるたった一つのことだ。だから私は、慣れない物体が相手でも躊躇わない。
「これを入れて……こっちも入れた方が良いのよね……?」
「そうよ。セリナも好きでしょう、ネギュ味噌の味」
「これ、いつも使ってる?」
「えぇもちろん。わりと使っているわ」
ダリアはいつも美味しい食事を用意してくれる。そのことに感謝はしていたが、そのありがたみを私は理解しきれていなかった。今、こうして実際に作ってみて、そのことに気づくことができたように思う。
一品仕上げるだけでも様々な過程がある。いくつもの努力がある。
それは、実際に自分の手で作ってみて初めて気づくことだ。