51:暗転/それはエゴだと自覚している。
引き寄せられたとき、ぞくりと背筋が粟立った。
それは紛れもない恐怖心だ。
「え」
頭を押えられ唇を寄せられ、出てきたのは間抜けな声。
唇を合わせられ、驚愕よりも先に、一瞬で全身の力が抜けてしまった。けれどいま、何が起こっているのか、分からないほどでもなくて。
「初めからこうしてればよかったのかな」
どこか自嘲を含んだ百鬼先輩の声が、耳に届く。
どういう意味なのか、それを問う前に、先輩はもう一度私の口を塞いだ。一瞬だけ、どろりと何かが口を通して身体に入っていったような感覚があった。
「ごめんね」
ちゅ、と音が鳴って、小さく囁かれる。恐怖心が消えない。
キスされた。なんで。どうして。訳が分からない。さっきの感覚は一体何? 怖い。先輩を怖がりたくないのに、怖い。怖い、怖い、どうして? なんで?
ぞっと怖気立つ体を、先輩が宥めるように撫でる。
「悠」
瞬くことも、目を閉じることもできないまま、なされるがままに百鬼先輩を見上げる。
その表情が。
今まで見てきた、どの百鬼先輩とも違っていた。異形の姿すら見慣れたと思っていた私は、なんの感情も見えない先輩の姿が──悲鳴をあげて逃げ出したいほど怖くて、でも抱きしめてあげたいほどに愛おしかった。
けれど私は相反する心にあるどれも出来ない。目をそらすことも、振りほどくことも、抱きしめ返すことだって、今の私には出来そうになかった。
「好きだよ、ハルカ。ずっと、ずっと、ずっと、気の遠くなるほど長い間、君だけが好きだ。君が俺の全てなんだ。どうしてきみは俺の隣にいてくれないんだろうね」
こんな恐怖の中でなければ、きっと泣いて喜んでしまうだろう告白を、百鬼先輩は虚ろな声で囁いた。
何か、言葉を返したかった。せめて私も好きだと、そう告げたかった。がくがくと震える身体は逃げ出そうとしていたけれど、それでも、どれだけ怖くても、私は百鬼先輩が好きだとそれだけは揺らがなかったから。
でも、声は少しも出ては来なくて。
抱きすくめられる。まるで囲うように、百鬼先輩は私に覆い被さる。
強く強く抱きしめられて苦しいほどで、訳もなく泣き叫びたいような衝動に駆られて、それでも好きだと返したくて──そうして、ぷつりと視界が暗転した。
■■■■
ぐったりと力を失った身体は、あまりにも空虚だった。
口付けて、抱きしめて、名前で縛ることだけはしたくないと言霊は使わず、ただただ執着を狂気じみた告白に溶かして吹き込んで。逃げられたくはないからと意識を奪って。
我ながら酷いことをしていると、自覚はあった。
失えない。奪わせない。彼女は百鬼泰成にとって、人生と同意だった。
「ああ、なんて酷いことをする男なんでしょうねぇ。合意も得ずに強引に口付けるなんて」
ぽつりと降ってきた声に振り向いて、嗤う。
「止めなかったくせによく言うよ」
樒、と声をかければ、くすくすと笑いながら近寄ってくる。
樒は腕の中で気を失う悠をじっと見つめ、そうして首を振った。その顔は困ったような笑みを浮かべていて、けれど何かに気づいたように悠の顔を見つめている。
「……? ああ、なるほど。そういうことでしたか」
百鬼が何をしたかったのか気づいたのだろう、苦笑はそのまま面白いと言いたげな笑みに変わる。
さらりと前髪を撫でた手が、鼻先、唇、喉と通って、とんと胸の上に置かれた。これが樒でなければ、彼女に触るなと振り払っているところだ。
「欠けた魂をあなたの力で覆ったのですか。この子が怪異に狙われるのは欠けているからではないですけれど──まあ、目くらましにはなるでしょうね」
「どうしたらいいのかなんて、もう分からないし……それなら、最初からこうやって隠せばよかったかなってさっき思っちゃったんだよね」
魂を隠してしまえば、と。百鬼は呟いた。この子の暖かな魂を自分の暗く濁った魂で覆ってしまえば、少なくとも低級は近寄らないはずだ。
「ええ、有用でしょう。これなら力の弱い怪異はあなたを恐れて近寄れないはずです。……でも少し不完全ですね?」
「悠をここで犯せって? いくら俺でもそこまでは出来ないよ。初めては彼女が感動してくれるような、それこそホテルのスイートルームとか景色のいい旅館とかさ、そういう場所がいいんだ」
あなたも大概ぶっ飛んでますねぇ、と樒が吹き出した。自分がどれほど身勝手なことを言っているか、自覚はあった。
魂を覆うのに、軽い粘膜接触という形で自分の力を飲み込ませた。口付け──キスは古来から魂の接触の媒介として知られている。おとぎ話によくあるキスで呪いが解けるという伝承は、この仕組みがあるからだ。故にキスは最も古い解呪の方法とされているし、応用してこんなふうに呪いまがいの加護を押し付けることだってできる。
樒が言うように不完全ではなく完全に魂を覆ってしまうのであれば、魂の許容量が少ない彼女の自我を壊さないように、もっと深いところで繋がる必要があった。それをここでする気は、もちろん一切無い。
すべて百鬼の都合でしかない。百鬼は悠に拒否権を与えなかった。
こういうところが人間から外れてきているんだろうな、と自嘲する。
「とりあえず、連れて帰ってこの子に説明するから、道開けられる?」
樒がいるなら家の近くに出る道を作れるだろうと、百鬼が振り返る。それに樒は頷いて、ぱちんと手を叩いた。
「この子が起きてからでも、明日でも。近いうちに私の屋台に連れてきてください。ピッタリの商品がありますからねぇ」
そうして道を開けると樒は、こちらの対価はその時に、と言ってふわりと消えていった。
願わくば、起きた悠が自分を嫌ってなければいい。それだけを思って、百鬼は開いた道へと歩き出した。
一部百鬼の台詞と思考が不快に思われる方がいるかもしれません。
彼は人間から半分以上外れているため、倫理観が少しズレています。無理やりの描写はこの話のみとなります。