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大きなため息と共に、百鬼先輩の頭が私の胸の上あたりまで落ちてきた。もちろん胸には触れてはいないけれど、急なことに「ひえっ!?」と声を上げてしまったのは仕方ない。抱きしめられた手の力が強まって、柔らかな髪が顔にあたってふわりと百鬼先輩の香りがして、大きく悲鳴を上げなかっただけ偉いと思いたい。そうでは無いとわかっているのだけど、まるで縋られているみたいだ。
「きみに怖がられたらいやだなと思ってたんだ……だから本当は、こんなこと話したくなかったんだけど」
落ちた声が少しだけ弱くて、そんな声を聞いたことがなかったから、思わず「怖くないです!」と叫んでしまった。ごめんなさい先輩、うるさかったと思うんですけど反射なんです。
さっきまであった名前を呼ばれる度に感じた怖さもなくなっているから、あれはきっと雰囲気が怖かったのだと思うのだ。
私が百鬼泰成というひとを怖がるなんて、そんなことはありえないのだと、私は伝えないといけない。
「うん、嬉しい。……ふふ、でも俺がラスボスか。それもいいね」
そうなると、俺は君を攫っていく魔王になるのかな。
面白そうにそう言って、先輩は私の顔をまた覗き込む。いちいち距離が近いので、先輩が動く度に私の挙動はどんどん不審になっている気がする。
指を絡めていた手が離され、そっと頬を撫でられた。
「……ごめんね、もう一度だけ許して」
小声で何かを言った先輩は、私の顔を先輩の顔の方に向けさせると、至近距離で見つめてくる。なんて言ったんですか、と聞き返そうにも、そんな近さで見つめられては声なんて出てこない。
顔が良い、と明後日のことを考えて逃避した私の額に、こつりと額を合わせて。
「悠」
ぞく、と震えた身体を宥めるように、百鬼先輩が腰に回していた腕で背中をそっと撫でる。
「きみは何も気にしないでいい。きみは、ただいつも通りの日常を過してくれればいい。きみに降りかかる火の粉は全部俺が払う」
なんのことなのか私にはよく分からないのに、まるで先輩の声が身体に直接入ってくるようで、気づけば「はい」と頷いていた。
「いい子だ──今日のことは、全部悪い夢だよ。寝て起きたら忘れるただの悪い夢だ。だからもう、あんな怪異のことは忘れてしまいなさい」
ちかちかと目の前が弾けるみたいな感覚に、思わず目を閉じる。そうすると、どういうことなのか、身体の力が抜けていく。
かくんと落ちそうになった身体を百鬼先輩がしっかりと支えてくれたことだけはぼんやりとわかったけれど、その後何か言われた言葉は私の耳には残らなかった。
ただ、意識が落ちる直前に、百鬼先輩が私の名前を呼んだような気がした。
「意識を操るのは褒められたことではありませんねぇ」
音もなく入ってきた樒は、百鬼を見て笑ってそう言った。
百鬼は腕の中の最愛に頬擦りをして、自分の方に引き寄せながら抱きしめる力を強くする。
「覚えられていて縁が残っても困る」
「まあ、それは確かにそうなんですけれど。名前で縛るのはやりすぎでは?」
今まではそこまでしてなかったでしょう、と首を傾げた樒が、興味深そうに百鬼とその腕の中で眠る悠を見る。
百鬼は怪異混じりの、半分以上人間ではない存在だ。一番初めに取り込んだのが、堕ちた神の成れの果てだった。そうして、餌として色々なモノを取り込んできた結果、下位の神と同等ほどに力がある。故に、名前ひとつで力のないモノなら、意識して呼べば操ることが出来てしまう。
名前というものは、魂と身体を結びつける誰しもが持つ強力な守護だ。翻って言えば、名前が力あるものに知られてしまえば、魂を握られることに等しい。
怪異に名前を知られてはいけないよ、と言い伝えられており、それが現代に至るまで人々に根付いて続いているほどに有名なものだ。
百鬼は「目を閉じていて」と「逃げないで」という簡単な命令から悠に馴染ませ、最後に「忘れなさい」と名前に絡めて命令している。
「今回でそっちは片付いたかもしれないけど、まだあと半年あるからね。念には念を入れておきたい。名前で縛ってあるから今日のこともこの子にとってはただの悪い夢になる」
百鬼は「本当なら今日のこと全て忘れさせたいくらいだけど」とため息をついて、けれどとろけるような笑みを浮かべて悠を見つめる。
「怖いけど信じてくれるって言ってくれたから、それは消したくない。ふふ、樒、この子俺のあの姿見てなんて言ったと思う?」
「あの姿──ああ、怪異混じりのあれですか。あれは人間には怖いと思いますけど、その様子だと嬉しいことでも言われたんでしょう」
「ラスボスみたいでかっこいい、好きです、だって。俺のことどれだけ虜にすれば気が済むのかな、この子は」
百鬼はすやすやと眠る悠の額に口付けて、早く俺の事好きになって、と囁いた。
「そこで名前を使わないあたり、きみも大概こじらせてますよねぇ」
「まあね、自覚はしてる。繰り返した分もいれたら何百年越しの片想いだよ。恋人になれた時があるだけ厄介さ。この子が俺を好きになってくれた時が一時でもあって、俺はそれをずっと忘れられないでいるから今俺はここにいるんだし。名前で縛って俺の恋人にしたいんじゃないんだ。ちゃんと俺のこと好きになってもらいたいんだよ」
健全な男子高校生の恋心だろ、と笑って、ふと表情を改めると、百鬼は樒の方を見た。
「それで、樒がここに居るってことは、アレは片付いたんだろう?」
一時も悠を離す気がない百鬼を面白そうに見ながら、ええ、と樒は頷いた。
「随分と可哀想なモノになっちゃってましたから、結構簡単でしたよ。目の前で君がその子と手と手を取り合って逃げたのが、随分堪えたみたいで」
「……へえ?」
「わたしはこんななのになんでその女を庇うのなんでなんで、って延々と呪詛を吐いてましたからねぇ。なんでこんなに執着されてるんです、きみ」
「知らないよ。知りたいとも思わない」
樒の手には、小ぶりの檻のようなものがある。その中は一見空っぽの様に見えるけれど、よく目を凝らせば黒く染った魂が入っているのが見て取れる。
「身体の方は無事だったので、代わりのモノを入れておきました。性格が変わってしまうのは怪異に襲われた人間に良くあることですから、すぐ周りとも馴染むでしょう。まあ、中に入れた魂が馴染むまでは、そのお嬢さんとは会わせないほうが良いかもしれませんが」
「俺が会わせると思う?」
「思いませんねぇ」
くつりと笑う樒は、百鬼に「きみ独占欲強そうですし」と返して、手を振って檻を消す。そうして次に、懐から取り出したものを百鬼に渡した。
「お守り代わりにどうぞ」
真鍮製の飾りの付いた髪飾りと、揃いのデザインのタイピンだ。花と蔦のデザインで、真紅の石が目を引く造りになっている。
おや、と目を瞬いた百鬼を見て、樒は満足気に頷いている。想像通りの反応だ、とでも言うような顔で、樒は一つ一つ指さして説明した。
「あの十字路できみとそのお嬢さんから対価に頂いていたものを、アレンジして作ってみました。効果は魔除に特化させています。ああ、あとこちらもおまけでどうぞ」
十字路で対価に渡した百鬼が買ったブローチと、悠が買っていった真鍮製のペンダントトップを改造したらしい。見た目も可愛らしいものになっている。
なるほど、と百鬼が苦笑する。これをしたくてあの対価だったわけだ。
原初の密林檎をひとつ追加で取り出して、置き場に迷ったように数秒止まったあと、百鬼が悠から手を離さないのを見て林檎はソファの上にころりと置かれる。
「いやぁ、私いい仕事をしました。それじゃあ、お嬢さんの安眠妨害をするのもなんですし、詳しい話はまた後日に」
ひらひらと手を振って出ていく樒を視線だけで見送って、百鬼はそっと息を吐いた。
樒さんは片手に髪飾りとタイピンを持ったままで、けど悠を抱く手を離したがらずに林檎受け取れなかった百鬼さんを内心で「ウンウン微笑ましいですね」くらいに思っています。




