4.
***
彼女を思い出せなくなってから二週間、僕と二品さんは様々なことを試してみた。
「実織はよく、この図書館に来て物語を書いていたのよ」
「へぇ……」
二品さんが町の中で、彼女が気に入っていた場所を次々と紹介してくれた。
実織はね、周りをよく見る人だったの。
周りの木や、建物や空を見て、きっと何かを感じていたと思うの。私たちには感じることのできない彩のある世界。
それから、ここの川辺も好きだったわね。
そうやって、二品さんはあらゆるところを指さし、時折涙を浮かべながら、僕に思い出を語ってくれる。
でも、何を見ても、何を聞いても方條実織のことを思い出せなかった。二品さんの語る彼女はとても純粋で、澄んだ心の持ち主のようだった。僕はそんな、美しい心の持ち主と友人だったのだろうか。心を許し合い、悩みごとさえも打ち明け、日々過ごしていたのだろうか。
「ごめん……やっぱり分からない」
一生懸命彼女について教えてくれた二品さんに、僕は諦めたような声色と表情で謝った。
「そう…。まあ、無理に思い出そうとしなくてもいいよ。そのうち、思い出すわ」
二品さんは僕にそう言いながら微笑んだ。いや、正確に言うと、眉を下げて笑っていた。
「本当にごめん。早く思い出せるよう頑張るよ」
「ううん、いいの。それじゃあまた明日ね」
彼女は小さく手を振って帰ってゆく。その去ってゆく背中を見ていると、申し訳ない気持ちと、方條実織を思い出せないやるせなさで胸が裂けそうになった。
二品さんの姿が見えなくなって、僕も家路につく。
日が完全に落ちる前の、朱色に染まる空を眺めながら歩いていたが、ある場所に辿り着くと、自分でも分からないままに足を止めてしまった。
そこは、いつも目にする公園だ。特に変わったものがあるわけでもないのに、なぜかその場所に引き寄せられて、砂利を踏みながら公園の中に入った。
僕は二人掛けの椅子に腰かけ、辺りを見回す。
小さな滑り台とブランコがある。今は子供も大人も誰もいなくて、ブランコだけが風に吹かれて小さく揺れている。
そういえば、小さい頃によく遊んでたな…と懐かしく思って、ブランコの方へ歩いていき、その鎖に触れてみた。何年も使われて鎖は錆びていたが、その感触さえも懐かしかった。
と、その時だった。
頭の中で、何かがパチンと弾ける。
「あれ…」
何か、とても愛おしいものの気配がしたのだ。
そうだ、これは……。
僕の頭に、小さく揺れるブランコと、本を読む少女の姿が重なって浮かんだ。
ねぇ、敬貴くん。
私、作家になるわ。
そしていつか、“最愛の幸い”を書くの。
あの時、優しい声でそう言った彼女の声を、言葉を、はっきりと思い出した。
「実織……」
ポツリと、彼女の名前が口から洩れた。
どうして忘れていたのだろう。
あれほど一緒にいた彼女のことを、忘れるはずはなかったのに。
嬉しさと同時に、言いようもない悔しさに襲われた。
ごめん、実織。
何もかも思い出したよ。
きみの優しさも、温もりも、作家志望だったことも。
***
その夜、僕は二品さんに電話をし、実織を思い出したことを話した。彼女は涙声になってそのことを喜んでくれた。
『良かった…。このまま七瀬君、実織のこと忘れるだけなんじゃないかと思って不安だったから…。でも、そうならなくて本当に良かった』
その言葉を聞いて、二品さんがどれほど僕のことを心配してくれていたかが分かり、胸が熱くなるのを感じた。
「ありがとう」
僕は心の底から彼女にお礼を言い、それからしばらくの間は実織の話で盛り上がった。
そして会話が終わりかけた頃、二品さんが急に真剣な声になってこう言った。
『そういえば、実織の部屋から最近原稿が見つかって、もういらないらしいから親友の私が預かることになってたんだけど、この前なくしちゃってたの。それが今日見つかって。これは七瀬君に渡した方が良いかなって』
「原稿?」
一瞬、何のことだろうと疑問に思ったが、ああそうかとすぐに心得た。
実織は暇さえあれば物語を原稿用紙に綴っているような人だったから、きっとそれのことだ。
前に、二品さんが机の中に手を入れて何かを探していたことがあった。それはこの原稿だったのかもしれない。それを読めば、自ら死を選んだ実織の真意が分かるのかも…。
「二品さん、明日その原稿を持ってきてほしい」
『うん、わかった。明日渡すね』