3.
***
「……君、七瀬君」
遠くから僕を呼ぶ声が聞こえる…いや、遠くじゃない、近くだ。
僕はのっそり起き上がって顔を上げた。目の前で僕の名前を呼んでいたのは、クラスメイトの二品早紀だった。
「大丈夫?最近寝てばっかりだけど……。やっぱり、実織のこと…まだ辛いよね」
僕は、“実織”というその名前に胸がジクジクと痛んだ。
二品さんは、実織の親友だった人だ。
僕と実織は恋人だったわけじゃない。単なる幼馴染で、よく一緒にいただけだ。
けれど、彼女を失った喪失感は並大抵のものではなかった。それは、目の前にいる二品さんも同じはずなのに、いつも僕のことを気にかけてくれていた。
「ごめん……。そういうのじゃないんだ。寝不足なだけだから、心配しなくて構わないよ」
嘘だ、と心の中で呟いた。
辛くないわけがない。
起きていても寝ていても、頭の中には彼女しかいないじゃないか。
「それならいいんだけれど……。何かあったら言ってね。私も力になりたいから」
「ありがとう」
僕への気遣いか、二品さんはそのまま他の友達のとこへ行ってしまった。
実織が亡くなって、もうすぐ一か月。
クラスのみんなはもう彼女の存在を忘れたかのように、以前と変わらない毎日を送っているようだ。
彼女いた形跡が消えてゆく…。
まるで、最初から方條実織なんて人はいなかったかのように。
それなのに、僕だけが忘れられない。
だってほんの一か月前まで、僕の隣で物語を語ってくれたじゃないか。
その美しい心で、澄んだ声で、毎日毎日…。
いっそ、忘れられたらいいのに。
何もかも忘れて、失う痛みなど知らずに、幸せに過ごせたらいいのに。
そうすれば…こんなに辛い思いはしなくて済むだろう。
こんな、永遠の牢獄にいるような悲しみを味わわずに生きていける。
忘れたい。
彼女の声。
彼女の瞳。
彼女の温もり。
全部消えてなくなってしまえばいいんだ――……。
異変が起きたのは、それから一週間後のことだった。
僕はその日、朝起きて部屋の中を見回して、違和感を覚えた。
机の上に置いてある写真立ての中に、写真が飾られていなかったからだ。
「これ……何だっけ」
僕はそれを手に取って見てみたが、何の写真が入ってたのか、一体なぜ写真がなくなっているのか全然分からなかった。
不思議に思いながらも、学校へ行く準備をする。この不可解な現象は何なのだろうか。記憶に靄がかかったように何も思い出せなくて、そのまま学校に向かった。
「おはよう七瀬君」
学校に着いて教室に入ると、二品さんに声をかけられた。
「おはよう」
僕はいつものように挨拶を返す。周りからは、クラスメイトの話し声がこれもいつものように聞こえてきた。
だけど、教室を見渡して、再び「何かおかしい」という違和感を覚えたのだ。
なにか、足りない。
そう直感的に感じた。その正体に気づいて、目の前にいる二品さんに問う。
「なんで机が一つ足りないんだ?」
僕がそう訊くと、二品さんは、「え?」と顔をしかめた。
「どういう意味?」
僕は彼女の台詞の意味が全く理解できなかった。その言葉をそっくりそのまま返したい、と思えたほどだ。
「机、31台しかない」
このクラスは32人生徒がいるはずなのに、机が31台しかないというのは明らかにおかしい。
「何言ってるの。ちゃんと32台あるじゃない」
呆れたように二品さんからそう言われたとき、僕は自分の心臓がドクンと跳ねるのを感じた。
相変わらずクラスメイトたちのガヤガヤとした話し声が、うるさいぐらい耳を突いて響いてくる。
何かがおかしい。
自分の中の歯車が妙に噛み合わず、ギシギシと音を立て始める。
「七瀬君、実織の席、忘れてる…?」
そう言う二品さんの声は震えていた。そして僕は、何かどうしようもないほどの痛みを覚えた。
なぜなら僕は、彼女の言っていることが理解できなかったから。
正確に言えば、彼女の言う人が誰なのか、分からなかったから。
僕は、“ミオリ”という人のことを、1ミリも思い出せなかった――……。
***
思出せない。
そのことを二品さんに告げると、彼女は信じられない、という顔をした。
「それは本当に…?実織よ、方條実織。あんなに一緒にいたじゃない。どうして忘れてしまったの」
そんなことを何度も何度も訊かれた。それでも彼女のことを思い出せない原因は分からず、この不思議な出来事に僕は動揺してばかりだった。二品さんは、何度同じことを訊いても僕が答えられないことを悟り、疲れたように肩を落として、消え入りそうな声で呟いた。
「七瀬君…どうしちゃったの」
二品さんが眉を下げ、淋しそうな表情をしているのを見て、僕は申し訳ない気持ちで一杯になったが、自分ではどうすることもできなかった。
「ごめん…」
その言葉だけしか発せられなくて、謝罪すること自体が悪いことのようにさえ思えた。
「いえ、いいの…そういうことって、よくあることだと思う。きっとすぐに思い出せるわ…」
彼女は自分に言い聞かせるように、空虚なまなざしで教室の床を見つめて言った。
僕は何か大切なものを落っことした。でも、彼女もまた、何かをどこかに置き忘れたのかもしれない。
それから彼女は口をつぐんで自分の席に戻っていった。その背中は確かに震えていた。彼女は席に着くと、慌てたように机の中に手を入れ、ゴソゴソと何かを探し始めた。僕はその様子を特に気にする理由もなく、自分の机の木も模様を目で辿っていた。二品さんが言っていた“ミオリ”という人の記憶を思い出そうとしが、その度に頭がぐらぐらして考えることができなくなった。それは、覚えていないというよりも、脳が思い出すことを拒絶しているようだった。
けれど、それからしばらく机をぼうっと眺めていると、あることが脳裏をよぎった。
―忘れたい
ひしひしと音を立てながら、そんな思いが蘇る。
―全部消えてなくなってしまえばいいんだ
「あっ…」
そうだ、つい一週間前のことじゃないか。
「僕が、願ったんだな…」
一人でボソッと呟く。
教室を見回しても、僕にはまだ机が一つ足りないようにしか見えない。
忘れることを願ったから、一人の人間を忘れた。そんなことが普通はあるはずがないのに、そのあり得ないことが、本当に起こってしまった。
僕が願った。
何もかも忘れることを、本心から思ってしまった。
方條実織とは、一体どんな人なのだろう。どんな表情をして、どんな声で、どんな性格をした女の子なんだろう。
そして、僕は彼女をどんなふうに見ていたのだろう…。