1.
車のブレーキ音が、心臓に突き刺さった。
小学校低学年のころ、僕は震度7の地震の揺れを経験したことがある。確か、国語の授業の最中だった。揺れが来たとき、僕は突然の出来事にびっくりして、スイミーが大きな魚になった絵が描かれた教科書を思わず放り投げてしまった記憶がある。
しかし、実は震度7の地震自体はたいして怖くなかった。というか、揺れが来た瞬間に「怖い」という感情を抱けるほどの余裕を持ち合わせていなかったのだろう。
それ以上に怖かったのは、一度大きな揺れが収まった後に、不意に訪れる余震だった。
余震が来る前には、「ゴォォォ」という地鳴りがする。僕は、その地鳴りを聞く度に小さな身体を震わせていた。今でも飛行機やヘリコプターが飛ぶ音を聞くと、一瞬地鳴りと勘違いしてビクリとしてしまうほどだ。
だから、高校三年生の僕が、何でもないいつもの帰り道にその音を聞いた時、心臓が震えて思わず立ち止まった。
そしてその後、「ドンッ」とも「バンッ」とも言い表しがたい嫌な音がして、反射的に騒音がした方向に目をやった。
事故が起きたのは、学校の正門から伸びる坂の下だ。
そこではとても信じがたい光景が広がっていて、僕は一瞬自分の目を疑った。
「おい、大丈夫か!?」
正義感の強い大人の男の声と、「きゃぁぁっ」という生徒たちの悲鳴が響き渡る。しかし、僕の耳はそれらの音を瞬時にかき消して、脳は急いで坂の下まで駆け降りるように命令した。
これは…、なんだろう……。
何が起こっているのか―いや、交通事故が起こったことは間違いないのだが―、頭の中でまったく整理がつかず、ただ茫然とその光景を見つめていた。
横断歩道。
交差点。
坂道。
変形して転がる自転車。
凹んだ車。
そして、その傍らに横たわる少女。
少女は、僕と同じ高坂高校の制服を着ており、静かに目を閉じ眠っているようだった。
「あ、あの娘…方條さんじゃない!?」
誰かがそう言った。
僕は、突き付けられた現実に目を逸らして、今すぐにでもこの場から逃げ出したかった。
一体なぜ、こんなことになったのだろう。
昨日まで僕の隣で微笑みを浮かべていた彼女が、動かない人形になってしまったのは、何を間違ったからだろうか。
僕は、何一つ分からなかった。
***
彼女の名前は方條実織という。僕と同じ、高坂高校の三年生だった。
彼女はどちらかと言えば大人しい人で、クラスの中でもあまり目立つようなタイプではなかった。
ただ、僕が彼女に対して「一つだけ特徴を挙げよ」と言われたら、「大人しい」なんてことは言わない。そんな通り一辺倒な言葉で、彼女を形容したくはなかった。
彼女は世界中の誰よりも美しい心を持っていたと思う。
それは生まれつき備わっていた感性で、特別なものだった。
例えば、帰宅時の通学路。
夕日で真っ赤に染まる空を見て、彼女はこう言った。
「歌が聞こえてくる…懐かしい、子守歌。幼いころに畳に寝そべって聞いた、哀しい歌だわ」
もともと大きくて綺麗な目を細めて、昔を懐かしみながらもその目は真っ直ぐに山の端に沈む夕日を捉えていた。
そんな時はいつも淋しそうな表情になり、それから切なげな笑みを浮かべて言うのだ。
「でも、とても綺麗ね」
彼女はこんなふうに、僕にとってはどうでもいいような、とても些細なことの最も美しい部分をいつも考えていた。
世界の一番深い端っこを掴んでいたのだ。
「ねえ、敬貴くん」
いつだったか、彼女が何か決心したように僕の名前を呼んだ。
僕は、「何を言われるのだろう」とどきどきしながら彼女の次の言葉を待った。
「私、作家になるわ。そしていつか、“最愛の幸い”を書くの」
「最愛の幸い…?」
「ええ。私にとって、特別な物語なの」
夢を語る彼女の目はとても澄んでいて、僕はその瞳の中に引き込まれていきそうだった。
そうだ、彼女はいつだって未来に希望を持って生きていた。
真っ白く、穢れのない花を胸に抱いていた。
それなのに、なぜ…。
彼女は自分自身に制裁を加えなければならなかったのだろう。
“またね、敬貴くん”
あの日、笑って僕に別れを告げ、普段と同じように帰宅するはずだった彼女は、自転車で勢いよく坂を下った後、自ら赤信号の横断歩道に突っ込んでいった―。
案の定、彼女は直進してきた車に衝突した。
自転車のブレーキが壊れていたわけでも、彼女がハンドル操作を誤っていたわけでもない。
だからこれは、不幸な事故なんかじゃないのだ。彼女は自ら望んで事故に巻き込まれた。
警察は、彼女が自殺したのは彼女の家がとても貧しかったせいだと結論づけた。要するに、
「家庭の事情」として話が収まったのだ。実際、彼女の家には毎日借金取りが来て、普通の生活をしていけるような状況ではなかった。
彼女は毎日ほとんど寝ていない状態で、それでも学校にはきちんと登校していた。クラスでいじめられていたわけでもないし、僕の前では絶対に弱音を吐かなかった。
だけど、やっぱり苦しかったのだと、あの日ようやく気づいたんだ……。