3:名付け、完了
「そうだ、忘れるところだった。私と一緒に女の人がいませんでしたか?」
色んなことにショックを受けたせいで、すっかり頭から飛んでしまっていた。吸い込まれるその瞬間も彼女の手を握っていたのだから、彼女だってここにいなければおかしい。
「いなかったけど……いるはずなの?」
「はい。私がここにいるそもそもの理由は、その人ですから」
こういう言い方をすると恨んでいると思われかねないが、あの場に向かったのは私の意思だ。彼女だって被害者なのだから、恨みを持つのはお門違いというものだ。
そういえば長いこと話をしているけれど、アロイスさんはまだ帰ってこないのだろうか。ちらりと横目で彼の方を見ると、座り込んで未だに話をしているようだった。腕についているものが何なのか、後で聞いても大丈夫かな。
「私達が保護したのはあなただけ。今までも二人以上が同時に現れたっていう例はないかな。……だから、もしかしたら時間差でその人も来るかも」
「そういうものなんですか……」
儀式だの魔法だのという単語が出てくるくらいだ、あの不可思議な現象にも想像もつかないルールがあるのかもしれない。人の数だけ常識がある、世界の数だけ常識がある。
早速この世界で生きていくことに不安を覚える私がいた。
「他には何かある?」
「何か……何かあるかな…………あ、そういえば、この世界って言語はどうなってるんですか? 何の苦労もなく会話できてますけど」
「ああ、そのこと。面白いよー、これ。みんな会話はできるのに、いざ文字にしてみると全然わかんないの」
他の世界の文字難しすぎて面白いよお、と笑うルシェさんの顔はとても楽しそうで、語学を苦手とする私には眩しかった。難しいから面白いってなんだ、この人絶対私の世界だと成績優秀な生徒だ。
で、結局何故会話が成立しているのかと言えば、その昔星そのものにかけられた魔法による効果らしい。そんな便利な魔法があるなら私の世界にも欲しい。
「多分、じっと口の動きを見てたらわかるんじゃないかな。聞こえてる言葉と私が話してる言葉は違うと思うよ」
「なるほど。ちょっと気をつけて見るようにします」
今の状態は、簡単に言えばルシェさんの言葉を私の頭が知っている言葉に置き換えている、ということらしい。とりあえず、言葉の意味が通じるようにできていること以外の詳しい魔法の効果は、彼女にはわからないそうだ。星そのものにかけられた魔法だから、この世界にいる限りはどこの世界出身だろうが会話が成立する。本当に元の世界にもかけたい魔法である。
「でも、この魔法が必要だったってことは、言語が複数存在したってことですよね」
「そうだよ。今は一つの国に統一されてるけど、その前は四つに別れていたって言われてるんだけど……歴史の話はまあ、知りたければまた聞くか、実際に自分で歴史書を読んでみるかしてね」
兄さんの話が終わったっぽいから説明の時間はここまでかな、とルシェさんが顔を向けた方を見やると、確かに離れた場所にいたアロイスさんがこちらに向かって歩いてきていた。
落ち着いてよく見ると、アロイスさんの顔は遠目からでも整っているのがわかる。この兄妹は揃って美人と形容できる見た目をしているのか。
自分の顔は平凡で、ルシェさんのようにスタイルがいいわけでもない。こんな風に無駄な哀しみを抱えることができるのは、比較的余裕と落ち着きを取り戻すことができたからだろう。うん、生きてるだけ御の字なんだから見た目なんか気にしても仕方ない。眼福だと思って密かに拝ませてもらうに留めよう。
「おかえりー、兄さん。団長なんて?」
「王都付近の村が魔物に襲われたってことで、巡回の強化とかお偉方からのお小言とかで忙しいらしい。話は通してあるから、とりあえず儀式さっさとやって王都に向かうぞ」
話し相手は何かしらの組織の団長さんだったのか。名前からして女性っぽかったから勝手に色々邪推していたところだったのだけれど、口ぶりから察するに仕事相手らしい。いや、仕事相手だからといって可能性がゼロなわけではないけれど。
儀式についてちゃんと説明されたか、と聞かれて、そういえば説明してくださいってお願いしたのに一問一答方式ってなんだそれ、と今更ながらに思い至った。……まあルシェさんは変な人なのだろう、ということで片づけておく。済んだ話だ。
「じゃあちょっと立て。じっとしてろよ」
「は、はい」
ぴしっと指先まで力をいれて、真っ直ぐに立つ。ルシェさんはすぐに終わると言っていたけれど、いざ始まるとなると緊張する。これはあれだ、予防接種を受ける直前の感覚に似ている。痛くないらしいけど、得体が知れない行為をこれからされるというのだから恐怖心は拭えない。
アロイスさんはゆったりとした動作で腰に下げた袋から瓶を取り出し、中身を少しだけ私に振りまいた。匂いも何もしないけれど、儀式で使われるものなのだから、きっと何か特別な液体なのだろう。頬を伝う水が冷たいなあ、なんて考えていると、彼の中指がとん、と私の額に置かれた。
「目を閉じろ」
言われるがままに目を固く瞑る。早く終わってくれ、と強く念じていると、何やらアロイスさんがぶつぶつと呟いているのが聞こえた。儀式と言うくらいだから、呪文でも唱えているのだろうか。
さっきまで私の中に渦巻いていた恐怖心はすっかり消え去っていて、それどころか自分が儀式の中心にいるのだという高揚感さえあった。ファンタジーは気分が盛り上がる、仕方ない。
「――炎の神チャカの名の下に、汝に与える名は――――」
少しだけ、でもはっきりと聞き取れた呪文のその先を、私は聞くことができなかった。