16:騎士見習いの先
ルシェさんと一緒に、ひたすら本を読み文字を書きよく口を動かした、その翌日。特別朝に弱いということはなく、むしろ強い方だと自負していた私は、ルチアナさんに部屋の扉をノックされるまですっかり眠りこけてしまっていた。
「すみません、ルチアナさん。寝坊してしまいました……」
「寝坊だなんて! 今はまだそのような時間ではありませんから、お気になさらず!」
頭にぐわんぐわんと響くルチアナさんの声は、朝一番には厳しい。早く慣れたいものだ。
二人で食堂に向かっている途中、ごーん、という教会の鐘の音が6回鳴り響いた。つまり今は朝の6時である。……本当に寝坊とかいう時間じゃなかった。始業まで時間はたっぷりあるじゃないか。ルチアナさんのノックで飛び起きたから、時間を確認していなかった。
何だってこんな早くに、と思ったけれど、そういえば昨日はルシェさんと約束があると事前に言ってあったから部屋に来なかったのかもしれない。となると、彼女はいつもこの時間には支度を整えていることになる。…………朝起きられないとか夜寝つけないとか、そういう話とは無縁そうだ。
「あ、今日は掃除はしなくていいんですか? ああいう仕事こそ見習いの仕事かと思うんですけど……」
「掃除は私の小隊が勝手にやっていることなのです。持ち回りで行っておりますゆえ、ご心配なく!」
仕事として言い渡されていたんじゃなかったのか。自ら進んでやっていたとは、恐れ入る。仕事熱心な人だ。
食堂では既に何人もの人が食事をとっていた。入ってきた私達に気づいた一人が、おはようございます、と立ち上がって挨拶をすると、他の人達もそれに倣って挨拶をした。小隊長であるルチアナさんに向けられたものだろうけれど、全く知らない人達だからといって無視をするような気にはなれない。隣に目を向けると、彼女はにっこりと笑いながらこちらを見ていた。
「レナータさんも、敬礼をして挨拶を返しましょう。挨拶は基本ですので!」
「は、はい」
ルチアナさんの動きに合わせて敬礼して、彼女の地声に負けじと精一杯お腹に力を入れて声を出す。
「おひゃようございます!」
盛大に噛んだ私の挨拶に耐えられなかったのか、一番近くに座っていた白い制服の女性が吹き出した。ツボに入ったらしく、口元を押さえて肩をぷるぷると震わせている。
くそう、何も噛んだところまで忠実に訳して届けなくてもいいじゃないか。隣で「いい声です!」なんて言ってくれているルチアナさんには申し訳ないけど、ちょっと黙っていてほしい。
「元気のよい挨拶は相手も己も気分がよくなるものです。レナータさんも騎士見習いという身分ですので、この慣習に順応していただければ、と思います!」
「なるほど、了解しました」
朝一番には挨拶、休む前にも挨拶。挨拶は全ての基本です! とのこと。騎士団全体が体育会系なのかもしれない。
しかし騎士見習いにとって上官とは、どこからどこまでのことを言うのか。そもそも私は入って間もない新人なのだから、先輩という意味なら他の人はみんな上官にあたるのでは。
そんな心配を朝食をとりながら話すと、「上官とは単に小隊長以上の職にある者を指すのです」とのことだったので安心した。そりゃそうか。
会う人会う人にしっかりと挨拶をしていれば、いつかは仲良くなれるかな。今は隔離されているから、他の人と話す機会なんて滅多にないけれど。
今日も今日とて、ユーリッツさんと二人でお互い書類や本とにらめっこなのである。
「……前にも聞いたと思うんですけど、私一人に隊長一人を宛てる余裕があるんですか?」
「前にも言ったけど、騎士団で預かってる間は原則小隊長以上が相手をするのが決まりだから。余裕があるとかないとかそういう問題じゃない」
向かいに座って全く読めない書類を片づけているユーリッツさん。最初こそ、私に見せて大丈夫な書類なのかと心配したけれど、そもそも大丈夫じゃなきゃ目の前でやらないだろうと自己完結した。何の書類なのかは正直気になる。
集中力切れを起こした私がぼんやりとユーリッツさんの仕事ぶりを眺めていると、視線に気づいたらしい彼は大きなため息をついて、手を止めた。
「あんたが騎士団に残るのなら、こういう書類仕事がメインになる。戦えないヤツをわざわざ町の外に出す理由がないから」
「……騎士団に残る以外の道、私にあるんですか?」
「その気になれば生きる手段なんかいくらでもある。何をするにしても偏見はついて回るしある程度監視もされるけど、どう生きようがそれは自由」
いくらでも、とは言うけれど、私にはその手段がまるで思いつかない。確か聞いた話では、戦える人は傭兵になったり騎士団に残ったりして、農作業の経験がある人はこの世界でもそれをしているんだったか。
その気になればというのは、死ぬ気でやれば、ということなのだろう。ぬるま湯のように平和な世界で生きてきた私は死ぬほどの努力なんてしたことがなくて、だから帰りたい生きたいと心では思っていても、死ぬ気で頑張る自分が想像もできないんだと思う。想像の中でくらいせかせかと動き回ってくれていいのに。
「料理が得意なヤツは、食材の違いに四苦八苦しながら料理人として働いてたりするし、魔法が使えるヤツは、魔法で異世界とこの世界を繋げられないか研究してたりする。この世界にとって害であると判断されない限りはどんな生き方してたって構わない」
緑の瞳と目が合って、思わず視線を逸らす。何となくで過ごしていても、それはただ死んでないというだけで生きているとは言えないぞ、なんて、責められているような気分だ。いや、実際責められているのだろう。ユーリッツさんにではなく、自分自身に。
騎士見習いとして置いてもらえるのは最大で半年。その間に自分の身を守る術を、生きていく術を探さなければ。
手始めに目の前の本をちゃんと読めるようになるところから取りかかろう。
気合いを入れ直し、わからないところがあれば質問しながら、ひたすら異世界の言語と格闘した。




