黒の住処
ボォー、そう遠くない所で汽笛が鳴っている。大通りから少し外れている煉瓦の壁に挟まれた薄暗い路地で、青いペールの中を漁る。社会から見れば自分は此処に入っているゴミと同じなのだろう。ずっとこうして生きてきたものだから、捨てられたこれらからまだ食べられるもの、もう諦めた方が良さそうなものの判別はすぐにつくようになった。
港町特有の潮のにおいが鼻をかすめる。ここしばらく雨が降っていないから体にはその臭いがこびりついていた。以前こそ、どこか裕福な家に住めないかとか、せめて食べ物ぐらい毎日与えてくれる奴はいないかと望みを持っていたが、それももう捨てた。こんな汚い自分の面倒を見てくれるやつなんて、周囲からよく思われたいと言う欲に塗れた者か、よっぽどの気違い以外に有り得ないだろう。
先程のペールから見つけた魚の残骸を貪りながら思う。不味い。ぼうっと空を眺めていると、ガサッと揺れる音がした。
「ちょいと、そこの黒い旦那。お一人ですか」
高い声がする。不気味なような、心地いいような声。
「よろしければ私の家に来ませんか。ごちそうしますよ」
希望は捨てたはずだった。だがこの女、先程あげた例の後者、気違いらしい。全身を黒で覆い、こんな曇り空でしかも夜だというのに日傘まで差していやがる。これを気違いと言わず何と言う。
大通りの方から良く言えば豪快で、悪く言えば下品な笑い声が聞こえてくる。女から視線を外し通りをちらりと見ていると、その声の主はこの路地を一瞥することもなく通り過ぎて行った。女は微動だしない。こちらをジッと見つめている。やっぱりこいつは気違いだ。
差しのべられた手を取って女と路地を出た。もしこの女が周りの視線を気にするやつで騙されていたとしても、それはそれで良いかとさえ思う。きっとそれは、この女も自分と同じく黒尽くめであったからだろう。
連れて来られたのは丘を少し登ったところにある住宅地だった。それも普通の民家でなく、購入するには億単位の値段がするだろう豪邸ばかりで、中でも一番に大きいのではないかと思われる屋敷が彼女の自宅らしい。
リビングに行くと豪勢なシャンデリアが天井からぶら下がっており、立派な洋風庭園が一望出来るように壁が全面ガラス戸になっていた。重厚感のある大きなグランドピアノや革製のソファ。どれもとても立派なものなのだろうが、何故だか少し寂しい部屋だという印象を持った。
「少しお待ちくださいな、すぐに夕食を用意しますから」
そう言って奥の部屋に消えて行った彼女の姿は、路地にいたときよりもはっきり見えた。黒いドレスにつばの広い帽子、そして特に目を惹いたのは低いヒールの靴だ。着ているものは値が張りそうなものばかりだが、唯一その靴だけが、まだ半人前の職人が作ったような不格好なものだった。彼女の格好について悶々と考えを巡らせていると、
「旦那、食事が出来ました。こちらへどうぞ」
彼女はやはり黒尽くめであった。
「どんなものがよろしいのか分かりませんでしたので、先程も召し上がっていらっしゃったように、お魚にいたしました。いかがですか」
ダイニングに案内し、自分の前に焼き魚を置いた。ただの焼き魚ではない。ご丁寧にも既にほぐしてあったのだ。そしてこの匂いは鮪のものだ。久しぶりの高級品に我を忘れ、夢中で喰らいつく。やはり美味い。
「美味しいですか。……そう、それは良かった」
ホッと安心したような表情を浮かべた彼女は自身もテーブルの上にある夕食に手を付けた。
壁と壁に区切られた空間で誰かと、しかも敵対しない者と共に食事をするなんて何とも不思議な感覚だ。
「私、誰かとこうして一緒に食事をするなんて随分と久しいのです。生きているものの温かさを感じていると、食事がこんなにも美味しくなるのですね」
そう言った女はふっと笑った。
「私が貴方を屋敷に誘ったのも、一人が寂しかったからなのだと思います。貴方も同じだったのではないですか」
寂しいなんて感情は生憎持ち合わせていなかったが、この女が言うのだ。きっと自分も自覚が無いだけで、どこかで寂しいと感じていたのかもしれない。
「似た者同士、どこかで惹かれあったのかもしれません。私も旦那も真っ黒。まるで黒い羊みたいだわ」
自分のものではない手で頭を撫でられる。今日は変だ。この女に誘われて長年の住処だった路地から出てきて、その上頭も撫でられているのに嫌じゃない。全部この女のせいだ。キッと睨みつけると、それでも女は笑っていた。
「黒い羊……。邪魔者同士、お互い気を許しませんか。貴方さえ宜しければ、どうぞここを住処にしてくださいな」
窓から見えた空には星が綺麗に輝いていた。
朝、目が覚めるときは大概寒さに震えることが多い。だが今日からはそんな思いをしなくて済む。昨日は夕食をたいらげた後、潮臭かった自分を風呂に入れてくれたのだ。いつものように雨水ではなく、整備された上水道を通って出て来た軟水である。石鹸で二度洗いされ、とてもサッパリとして気持ちが良かった。
朝食を食べた後、彼女と共に町に出掛けることになった。何でも以前に注文していた靴が出来上がったと連絡があったのだとか。鏡の前で入念に自分の姿をチェックしている彼女は出会ったときのような黒づくめではなく、薄い桃色を基調とした安価なドレスを着ている。よっぽど靴屋に行くのが楽しみなのだろう、先程から口角が上がってばかりいる。そんな彼女を見ているとこちらも微笑ましい気分になってきた。
町は賑やかだ。自分はいつもあの港近くの路地の辺りをうろついていただけだったので、市場がある辺りには来たことがなかった。こちらに来た方が食べ物に有りつける確率は高いことは承知していたが、その分競争率も高い。同じ境遇のものがお互い奪い合いをしているのだ。そんな面倒なことをするなら不味いながらも安定している路地の方が性に合っていた。
「こんにちは、アナベル」
「あら、エリアーヌじゃない。何処に行くの?」
市場にある青果店の女主人に声を掛けた彼女は嬉しそうに言葉を返した。
「注文していた靴が出来上がったの。今から取りに行ってくるわ」
「そうかい、それは良かったね」
「えぇ。そうだ、帰りにオレンジを二つ買うわ」
「なら一番いいやつを取っておくよ」
女主人と別れ靴屋に向けて足を速める彼女。女主人との会話で初めて知ったのだが、彼女の名前はエリアーヌというらしい。今まで気にならなかったのは、お互いがその話を避けていたのか、それともただ単に必要がなくて忘れていただけなのだろうか。
靴屋に到着してドアを開けるとカランコロンとベルが鳴った。その音を聞きつけた靴屋の主人が店の奥から顔出し、パアっと明るい表情を浮かべた。
「いらっしゃい、エリアーヌ。注文していた靴が完成したよ」
「ありがとう。早速見せて貰えるかしら」
いつになく優しい顔になったエリアーヌが靴屋の主人、イレールを見つめる。彼はその視線に気付いていないのか完成した靴を手に、ここを工夫しただとか装飾を変えてみただとかを熱心に話している。
「この部分の厚みを薄くしてみたんだけど」
「えぇ、とっても素敵ね」
うっとりとして呟く。果たしてそれは靴に対してか、それともイレールに対してなのか。自分にはよく分からなかったがエリアーヌが喜んでいることは理解できた。
「君のことを考えながら作ったんだ」
「ありがとう、イレール。大切にするわ」
なるほど、きっとエリアーヌは彼のことを愛しているのだろう。前にあの路地に来た奴に教えてもらったことがある。他人を愛することが生きている中で一番の幸せだと。そのときの自分は、そんなのは馬鹿げていると思った。十二分に食べるものがあって、暖かい場所で暮らすことが本当の幸せだと考えていたからだ。だが二人を見ているとその考えも強ち間違いではないような気がする。
「ところで、そちらは君の友人かい?」
「いいえ、家族よ。昨日から一緒に住んでいるの」
イレールが自分を物珍しそうに見つめていた。彼女のような人と自分が一緒にいることを不思議に思ったのだろうか。少し居心地の悪さを感じる。
「そうか、家族か。素敵だね、名前は?」
彼は自分にとって意外なことを言ってのけた。今まで生きてきた中で、エリアーヌだけが自分に関わろうとしてきたのだ。だから彼女について行った。それなのに、こんな近くにも自分のことを拒絶しない者がいたのかと思うと、何だかくすぐったい気持ちになる。
「名前なのかは分からないけど、私はいつも『黒の旦那』と呼んでいるわ」
「黒いから黒の旦那か。うん、それもいいね。黒の旦那、イレールだよ。よろしく」
差しのべられた手を取ったのは彼女に初めて会ったときと今回で二回目だ。彼も彼女と同じく、触れられてもやはり嫌な気はしなかった。
二人の会話から察するに自分の名前は『黒の旦那』らしい。元より名前は持ち合わせていなかったので都合が悪いわけでもないし、彼女に付けられた名前だから気分よく呼ばれることが出来るだろうと思う。存外、気に入っていた。
靴屋からの帰り道、朝の約束通り市場の青果店でオレンジを二つ買った。エリアーヌは鼻歌を歌っている。
今日は彼女の昨日とは全く違う面を見せつけられた一日であった。路地で会ったときは哀愁漂う貴婦人のようだったが、今日は恋する町娘だ。たくさんの彼女の表情を見られてとても楽しかった。
たった一日、共に時間を過ごしただけでこれが日常だと錯覚してしまう。昨日までの日々はもう既に遠い昔のことのようだ。これが幸せというものか。なら自分はこの幸せを一生涯守り続けようと誓った。その誓いはつまり、命ある限りエリアーヌの傍に居続けることだった。
「私、イレールが好きなの。優しくて、自分の仕事に誇りを持っていて、でも少し不器用な彼が愛しくて堪らない。黒の旦那はどう思うかしら?」
屋敷に帰ってから彼女は自分に話しかけた。ああ、幸せなんだなと思う。今にも蕩けそうに顔を赤らめる彼女は出会った頃の格式高い雰囲気は持ち合わせていない。彼女の想いを応援したいと思った。
「旦那は応援してくれるのね、ありがとう」
ふふっと微笑んだ彼女の顔はとても美しかった。
数週間後、イレールが屋敷にやってきた。
「お誕生日おめでとう。君が生まれたことに感謝するよ」
「ありがとう、イレール。今日は来てくれて嬉しいわ」
可愛らしい笑顔でイレールを向かえる彼女は本当に嬉しそうだ。自分が生まれた記念すべき日を好きな人に祝って貰えるなんてとても幸せなのだろう。
「プレゼント、喜んでもらえると良いんだけど。どうかな」
そういって袋の中から取り出したのは小さな黒い箱。
「……開けても?」
「もちろん」
彼女がその箱を開けると小さなメロディが流れ始めた。響く音はとても綺麗で、彼女の声に似ていると思った。
「素敵なオルゴールだわ。大切にする」
「気に入ってもらえて嬉しいよ、僕の手作りだから形は少し歪なんだ」
「そんなこと無い、愛情が感じられるもの!」
お互いが照れて顔を赤らめて、見ているこちらまで温かい気持ちになる。
「実は黒の旦那にもプレゼントがあるんだ。彼の誕生日はいつか分からないから君と同じ日にすれば良いんじゃないかって思って、勝手にごめん」
生まれた日は覚えていない。それを汲み取ってくれたのだろう、彼なりに自分のことを思ってくれたらしい。人に自分が生まれたことを祝われるなんてことは生まれて初めてで、先程以上に温かい気持ちになって、ああこんなにも嬉しいものなのかなんて他人事ように考えた。
「黒の旦那、僕のセンスはどうかな」
目の前に出されたものはネズミの小さなぬいぐるみだった。これは自分好みである、此処に住むようになってからというもの野生の血が騒ぐことが時たまあったのだが、立派な屋敷に傷はつけられまいと走り回ることを控えていたのだ。
「旦那、イレールに何か言ってあげて?」
嬉しいという喜びの気持ちとありがとうという感謝の気持ちを持って、今までに無いくらい大きな声を出した。
「喜んでくれたのかい? それは良かった」
「今日はイレールも来るからと思ってごちそうを用意したの。たくさん召し上がって」
「ありがとう、エリアーヌ」
この二人の想いが通じて一緒になれば、とても温かで美しい家庭になるんだろうなと思った。そこに自分の居場所はあるのだろうか。
ほんの数ヶ月前までは一人、路地で一生を終えるのが当たり前でそれ以外の未来なんて思いつきもしなかった。しかし今はどうだ、いつまで彼女たちの傍に居ることが出来るのだろうと不安に思っているなんて不思議で堪らない。
いつか離れるときが来ても絶対に彼女は自分のことを忘れたりはしないだろう、そんな自信さえも生まれてくるのだから自分は遂に可笑しくなってしまったのか。それとも彼女が自分へ向ける愛情がそうさせたのか。どちらとも言えないが悪いことでは無いのだ、きっと。
自分がエリアーヌのもとで暮らすようになってから一年が経った。当時は痩せ細っていた自身の体も、毎日贅沢なものを食べてきたせいか少しふくよかになっていた。彼女とイレールも以前に比べると遥にお互いを意識しているように見えたし、最近ではイレールがよく彼女の――自分が住処にしている――屋敷に訪れることも多くなっていた。そんな平凡だけれども幸せな日常が崩れるなど、一体誰が考えただろうか。
「そんなの聞いてないわ、今更なによ!」
珍しく彼女の怒鳴り声が聞こえる。驚いて、声が聞こえたリビングに行くと彼女と一人の男が言い争っていた。
「エリアーヌ。今あの会社と統合すれば、もっと豊かな暮らしが出来るんだぞ。それにお前だけの問題じゃない。家政婦のものたちにももっと給料を恵んでやれるし、何よりもブルダリアス家の存亡が懸かっているんだ」
「……卑怯よ。今まで私のことなんて放って置いた癖に、必要になったら政略結婚させるですって? そんなの嫌よ、嫌に決まってるわ!」
そう叫ぶと同時に、彼女は二階の自室に閉じこもってしまった。エリアーヌと言い争っていたのは、彼女の実の父親で国内でも指折りの経営者である。元々仕事の為には家庭を顧みない人物であったため彼とエリアーヌの関係は良好では無かった。数年前に母親が亡くなってからは仕送り以外の交流も薄れていたのだが、最近になってやたらとこの家に帰って来ているのは自分も知っていた。どうやら、ライバル会社の跡取りとエリアーヌを結婚させてお互いの経営を安定させようという魂胆らしい。エリアーヌはイレールのことが好きなのだ。いくら自分の父が経営している会社のこととは言え、こんな馬鹿げている話を承諾するはずがない。自分はそう確信していた。
「初めまして、君が『黒の旦那』かい? 僕はクリストフ。どうぞよろしく」
数日後、家にやって来たのはクリストフという男だった。彼は例のエリアーヌの相手である。差し出された手を取ると、何とも言えない不快な気分に襲われた。我慢出来ずにパッと手を振り払うと、クリストフは一瞬顔を顰めたが何事も無かったかのように振る舞った。
「あら、ごめんなさい。人見知りかしら」
「いいんだよ、これから仲良くなっていけばいいさ」
二人の言動を見る限り、もう彼女と結婚することはお互いが了承しているようだった。でも彼女の顔は浮かない表情を浮かべていたのは明らかだった。
「……お茶を入れてくるわ。黒の旦那、クリストフさんと仲良くしてくださいね」
そう言って彼女がリビングから出て行くのを確認してから、自分とクリストフは向き合った。
「おい貴様、彼女に気に入られているからと調子に乗るなよ。言っておくが貴様には僕たちの結婚後、この家を出て行ってもらうからな」
やっぱりこの男は気に食わない。彼女や親族の前では好青年を演じているが、腹の内は汚いやつだ。こんな男とエリアーヌが結婚だなんて絶対に認めたくない。自分は死ぬまで彼女の傍に居ると誓ったのだ。
「黒は悪魔の使いだ」
彼はそう言い捨ててリビングを出て行った。
「黒の旦那。私、クリストフさんと結婚します。どれだけ酷いことを言ってもやはり私の父上は父上ですから、力になりたくないなんて言えません。だから申し訳ないけれど、旦那には此処を出て行ってもらわなければなりません」
出会った初めの頃のような口調で話す彼女は、町娘ではなく貴婦人だった。表情の読み取れない、不気味なような心地いいような声で淡々と話を進める。
「黒の旦那。私はもう彼と一緒になると決めたから無理だけれど、貴方は自由よ。最後に一つだけ、私のお願いを聞いてくれないかしら」
彼女の願いというのは、イレールに手紙を届けて欲しいとのことだった。
「よろしく頼みましたよ、旦那。短い間だったけれど幸せな日々をありがとう。貴方のお陰で私は独りぼっちにならなくて済みました。……愛してたわ、さようなら」
初めて彼女の涙を見た。頬を伝うそれを見て、背中に結ばれたイレール宛ての手紙の存在をしっかりと確認し、全速力で家を出た。
初めてこの家に来たときは何て大きなお屋敷なのだと驚いた。内装もそれは豪華なものだったが、今思うと彼女は心の寂しさを周囲を煌びやかにすることで誤魔化していたのかもしれない。
靴屋の主人、イレールに出会ったときのエリアーヌの幸せそうな表情は一生忘れることは出来ないだろう。他にも町を歩いているときに出会った旅人の自慢話や市場の商人との談笑、休日にイレールを含めて三人で街に買い物に行ったことなどたくさんの思い出が脳内を駆け巡る。
たった一年、されど一年。今まで味わったことの無い感情をたくさん教えてくれた彼女は、自分にとってかけがえのない大切な人だ。そんな彼女の最後の願い。自分の体がどうなろうともこれだけはイレールに届けなければならない、そう思ってとにかく地面を蹴った。
ドンドンドンッ! 休むことなく走り続けて辛い体をドアにぶつける。営業時間はとっくに終わっているのにこんなに激しくドアを叩く音がするのだ。イレールは何事かと驚いて玄関のドアを開けた。
「君は、黒の旦那じゃないか。こんな時間にどうしたんだい?」
そう言うイレールに背中の手紙を見せる。何かを感じ取ったイレールは急いでその手紙を読み始めた。何が書いてあるのだろうか、自分宛てではないのに無駄に緊張してしまう。
「……そうだったのかい、エリアーヌ」
読み終えるとぽろぽろと涙を流し始めたイレール、その手から落ちた手紙。生憎教養が無い自分には何と書いてあるのか皆目見当も付かなかったが、紙面には所々に染みが出来ていた。新しく落ちた雫はまだ濡れているのだから、その染みはエリアーヌが手紙を書いたときに出来たものなのだろう。
「僕も君が好きだった。楽しい時間をありがとう」
優しい表情を浮かべた彼は手紙を折りたたんで言った。
「黒の旦那、この手紙を僕に運んでくれてどうもありがとう。君はもう自由だから、好きにするといい」
以前は自由気ままに暮らしていたのだが、今となってはあの暖かな屋敷に帰るのが当たり前になっていたし、自由になったからと言って他に行く当ても無いのだ。知らない内に自分は温い生活を送っていたのだ。今更自由にしろと言われてどうする、行き場の無い自分はどうすればいい、エリアーヌとイレールは本当にそれで良いのか。
「君は黒い羊でも、悪魔の使いでも無い。彼女と僕の唯一の家族だ。それだけは、忘れてくれるなよ」
彼女が自分を送り出す前の愛していたという言葉はきっと彼に向けられたものなのだろう。そしてあわよくば、自分のことを少しでも想ってくれていたら嬉しいと思った。
ボォー、そう遠くない所で汽笛が鳴っている。大通りから少し外れている煉瓦の壁に挟まれた薄暗い路地で、青いペールの中を漁る。社会から見れば自分は此処に入っているゴミと同じなのだろう。以前ならば何も知らずに薄汚いままの一生を過ごしていたかもしれないが、もう投げやりになったりはしない。こんな自分でも愛情を注いでくれる人がいた。彼女たちは自分のことをまだ覚えているだろうか、自分があの屋敷を出て行ってからもう二年が経つ。自分の体も重くなってきたし、この路地にも新参者がぞろぞろと住み始めた。
風の便りで、彼女が結婚すると言ったクリストフの経営する会社が倒産したというのを聞いた。彼の父は素晴らしくても、彼自身は経営者の器では無かったらしい。彼女はどうしたのだろう。会社は倒産しても奴と結婚したのだろうか、それとも結婚の話は無しになってイレールの元へ帰ったのだろうか。もし叶うならば、後者であって欲しいと強く願った。
どれだけ月日が経とうと、自分はあの日々を忘れることが出来ないでいた。
「アンタはいつから此処にいるんだ」
一ヶ月程前からこの路地を住処にしている、自分とは対照的に真っ白な奴が話しかける。
「……一度抜けたことがあるが、もう十年程になる」
「じゃあ生まれたときから此処にいるのか」
ひどく驚いた顔をしてこちらを見る。此奴はここに来るまでは誰かに飼われていたのだろう、生まれたときから野生である自分の生き方があまり分からないようだ。
「人間なんて酷いもんさ、邪魔になったらすぐに俺たちを捨てる。この路地の前を通る奴らは尚更だ、もう俺は人間なんて信じない」
苦い思い出でもあるのだろう、人間を心の底から恨んでいるような目をしている。
「だがお前の目を見る限り、まだ希望は捨てられていない様だな。恨みなんて感情は本当に恨んでたら持てないもんなんだよ。俺だって人間なんて信じちゃいなかったさ。でもな、こんな俺でも愛してくれる人がいるんだ」
ガサッと揺れる音がした。懐かしい匂いがする。
「ちょいと、そこの黒い旦那。……今日はお一人じゃないみたいね」
高い声がする。不気味なような、心地いいような声。あの日、声をかけられたとき既に自分は彼女に囚われていたに違いない。こんなにも愛おしいと感じるのだ。
「よろしければ私の家に来ませんか。ごちそうしますよ」
ふふっと笑う黒尽くめの女――エリアーヌは二年経っても変わっていない、それどころか以前より元気そうに見えた。
「行くんですか」
後ろから諌めるような声が聞こえる。
「希望は捨てた方が楽だ、でも捨てるのは簡単じゃない。誰にでも懐けば良いってもんじゃない、自分の目で見極めろ。……じゃあな」
彼女の横について歩き出す。もう二度とこの路地には帰ってこないだろうが、寂しさは感じなかった。かといって清々した気分という訳でも無い。今はただこれから再び始まる彼女との暮らしに柄にもなく胸を弾ませていた。
「屋敷に帰れば彼もいるわ。これからは三人ずっと一緒よ」
黒尽くめの格好には似合わない笑顔を浮かべた彼女は少女のようだ。
「早く帰りましょう、黒の旦那」
名前も無かった自分の呼び名である。久しぶりに呼ばれたその名はいつの間にか自分の中に深く染み込んでいたらしい。彼女の声で名前を呼ばれたときに、自分は本当に幸せ者だなと思った。