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お姫様のはじめての冒険1

「はぁ」


一人の少女がため息をついた。

煌びやかな衣装を身に纏っており、一目で上流階級の人間であるとわかった。

夜風になびくアッシュブロンドの髪が、月光を反射してキラキラと光る。


少女は再びため息をつく。

空は薄く暗く、しかし雲間から覗く月の明かりは一際眩しかった。


目線を下に移すと家々の明かりが規則正しく並んでいる。

外側に行くほど明かりはまばらに、巨大な壁を超えると明かりはなくなった。

そこから先は平野が広がっている。

その平野の先は遠くに森が見え、はるか先には山脈が連なってる。


少女はいつもその光景に思いを馳せていた。

しかし自分には無縁の存在。今までも、そしてこれからも、その景色をここ以外の場所から見ることはないだろうことも分かっていた。

その事実に心の中が黒く塗りつぶされるようだった。


コンコンと、背後からノックの音が響く。

『失礼します』と一言が聞こえると、少女の返事を待たずに扉が開かれた。


姿を現したのは黒い礼服を着こなした若い女だった。

端正な顔立ちと衣装が相まって、見る者に厳格な印象を与える。


「チェリス。部屋に入るのなら私に許可を取ってからにしてください」

「申し訳ありません」


チェリスは扉を閉めると少女の元へ歩み寄った。

歩くたびに黒く艶めく長い髪が背後で上下する。


少女は不愛想な召使に頬を膨らませると、ベッドに腰を下ろす。


「で、今日はどういった用ですか?」


チェリスは少女の前まで来ると、跪き、手に持った紙袋を差し出した。

少女はその紙袋を手に取る。


「これは?」

「今朝、王宮を訪れた商人から御父君が頂いたものです。何やら巷で噂になるほど美味なるパンであるとか」

「パン?」


少女は訝しげに思う。


パンは王都では主食とされ、当たり前のように食べられている。人気のパン屋もあるにはあるが、そもそも種類があるわけでもないので、特に客足がどこかの店に集中することは稀だった。

だからこそ、噂になるというのは少し不思議な感じがした。


少女の食事に出てくるパンは、王都でも有数のパン職人が作るものだ。

パン職人には屋敷に住み込みで働いてもらっているので、いつでも焼きたてのパンを食べることができる。

一般的においしいと言えると思う。ただ、正直なところ少女はさほどパンが好きではなかった。


パンにはちみつをかけて食べるのは別として、どのパンを食べても結局パサパサして味気ない。

焼きたてならまだましだが、時間がたてばたつほど多くのパンはそれが顕著だった。


だから少女は期待していなかった。

たかがパンで、何を浮足立つことがあるのか。これを持ってきた商人も、王宮にそのようなものを献上するなど程度が知れるというもの。

少女が王であれば、二度と王宮の敷居を跨がせないだろう。


とは言え、こうしてチェリスが態々持ってきたのだ。今もこうして傍らから少女を見つめている。

彼女の面目もあるので、この場で食べないわけにもいかない。夕飯は食べたばかりなので一口くらいならと考えながら、少女は仕方なく包みを開けた。


そこに入っていたのはいつも自分が食べるのと変わらないパンだった。

固そうな外皮に覆われたごく一般的なパンだ。

少女はチラリとチェリスに視線を向けるが、チェリスは無表情で少女の反応を待っていた。

渋々少女は、小さな口でそのパンを一口齧る。


「……」


思ったほど固くない。いや、寧ろ柔らかい。

何より今まで味わったことのない味が、いつもは味気ないパンから溢れてくる。


そのままでも十分美味しかったが、食べ進めると更に少女は驚きを露わにする。パンの中にシチューのような別の料理が入っていたのだ。

それがまたこの上なく美味だった。


少女はその味をゆっくり確かめるように、もう一口、もう一口と食べ進めた。

気づくとすっかりパンを平らげていた。


「いかがでしたか?」

「美味しかった、です……」

「それはよかった。では私はこれにて」


チェリスは用を終えたためか、立ち上がるとさっさと部屋の外へと向かった。

少女は思わずその背中を呼び止める。


「待ってください。このパン、一体どんな方が作ったんですか?」

「さぁ。私は存じませんが。ただ風の噂程度ならお話しできますが」

「お願い。聞かせてください!」


少女はベッドから転げ落ちんばかりの勢いでチェリスに迫った。

今まで仕えてきて初めて見る主の積極的な姿に、チェリスは不思議な高揚を感じた。


「では。その者たちは、一か月ほど前から噴水広場にある市場で店を出しているそうです」

「者たち?」

「はい。複数人で店をやっているようです。ただ、ここ数日はその話を聞きませんので、もう店じまいしたかと。その店では売り子が給仕服を来てパンを販売しており、それもあって賑わっていたようですね」

「給仕服? どこかの屋敷の使用人なのですか?」

「いえ。最近市井では給仕服を来て接客する店が増えているようでして。何でも、庶民が貴族の感覚を味わえるとかで話題になっているそうです」

「市井の民は変わったものを好むのですね」

「そのようですね。話を戻しますが、その売り子が期間限定で販売していると言っていたそうです。どうやら一時的に王都で販売していたようで、店自体はラウルホーゼンという村にあると聞きました」

「ラウルホーゼン?」


少女が聞いたこともない村だった。


少女はこの王都から出ることを許されていない。しかしだからこそ、王都の様々な土地や各国の話など、小さい頃から興味をもって調べてきた。

その自分が知らない村があったことに正直驚いていた。


「私も初めて聞く名前でした。その村に行ったことのある商人に聞いたところ、国境近くにある村のようですね。昔は鉱山で栄えていたようですが、鉱山が閉じて数十年、今ではかなり寂れているようです。ここ最近村興しをしているようで、だいぶ旅人や商人の往来も増えたとか」

「そんな村があったのですね。私もまだまだ見識が不十分のようです」

「私もですね」


少女は今食べたパンの味を思い返す。

これまで食べたどのパンとも違う。パンと言うよりも、これ一つで完成された料理のようだった。


またこのパンを食べてみたい。いや、これ以外のパンも。これを作った人のパンを、もっと味わいたい。

少女は心の中に膨らむ感情を思い、しかしそれを実現する術を持たないことに落胆した。

そのままトボトボとベッドに戻る。


それを見ていたチェリスは悲しげな表情を浮かべた。

一体自分がこの主に対して何ができるのだろうか。どうやったらこの少女を笑顔にできるのだろうか。

しかし自分の立場を考えると軽はずみな行動に出るわけにもいかない。

チェリスは自分の感情を押し殺し、部屋を出る。


扉に手をかけたとき、少女から声がかかった。


「チェリス。一つお願いがあるんですが」

「お願い? 一体何でしょうか」


少女は何かを言おうとして、しかし余程言いにくいのかしばしば口を噤む。

やがて意を決したのか、真剣なまなざしを向けて口を開いた。


「私を、そのラウルホーゼンへ連れて行ってください」

「……は?」


余りに突拍子もない一言に、何とも間抜けな声を出してしまった。

チェリスは今までの鉄面皮が嘘のように、眉間にしわを寄せて早口に捲し立てる。


「い、いや。ルーシェ様は王都の外に出ることは禁止されています。私の一存ではとても判断できません。まず御父君にご相談された方がよいのでは?」

「ダメです。父は絶対に私の外出を許さないもの。あなたも分かっているでしょう? ここから出るのでさえ許されることの方が少ないのですから」

「そ、それはそうですが。ですが、御父君がルーシェ様の事を心配に思っているからこそのことです。それに、使用人である私は御父君の命に逆らうなどできません」

「あら。チェリスの主は誰でしたっけ?」

「そ、それは……」


チェリスの立場はルーシェの護衛兼側仕えで、形の上ではルーシェが主ということになっている。ルーシェの言いたいことは直ぐに分かったが、ルーシェの父親を無視してまで聞ける命令ではない。


チェリスが言葉に詰まっていると、ルーシェが側まで駆け寄りしがみ付いた。上目遣いに目に涙をためて見上げてくる。


チェリスはルーシェが物心つく前から仕えている。だからこそ、少しルーシェに対して甘い一面を持ち合わせていると自覚していた。

それ以上に、この籠の鳥であるルーシェに少しでも外の景色を見せてやりたい。前々から思っていたこともあり、丁度いい機会と考えてしまった。


「……分かりました」

「ほんと!? だからチェリスは大好きなのよ!」


ルーシェがぎゅっとチェリスを抱きしめた。チェリスはルーシェの頭を優しく撫でた。


「さて。そうと決まれば準備をしなくてはなりません。ラウルホーゼンまでは少なくとも三日はかかります。その間、馬車で移動ですから覚悟しておいてくださいよ」

「了解です!」


ルーシェが直立で敬礼する。そしてバタバタと、着替えなどの準備を始めた。

チェリスは楽しそうなルーシェを見ながら微笑んだ。


さて、問題はどうやって誰にも気づかれず王都を出るか。後は自分の行く末だ。

ルーシェの扱いは自分に一任されているものの、勝手に連れ出したことがばれれば、間違いなく自分は罪に問われるだろう。まあルーシェの笑顔に比べれば安いものだが。

取り合えず置き手紙でもしておこう。


「できれば死罪にはしないでくださいよ、王様」


チェリスはそう独りごちると、目の前の我儘なお姫様を愛しそうに見つめた。



翌朝。

使用人達もまだ本格的に業務を開始していない頃、チェリスとルーシェは、王宮の秘密の通路を使って王都正門へとたどり着くと、ラウルホーゼン行きの乗り合い馬車へと乗車した。

馬車へ乗り込んで安心したのか、ルーシェはフードから顔を出して朝の静謐な空気を浴びる。


車内には既に数人の乗客がいた。黒い外套をすっぽりと被った人物に、いかにも商人風の恰好をした男、魔法使い然としたマントと山高帽を身に着けた女。

外套の人物は隅でひっそりと、商人は本を読み、魔導士はすやすやと寝入っている。

暫くすると馬車はゆっくりと動き出した。


ガラガラと車輪が音を立てて進んでいく。


「私、馬車乗るの初めてです。チェリスは昔乗ったことがあるんですよね?」

「はい。ルーシェ様に仕える前は旅一座にいましたので、町から町へ移動するのに馬車を使っていました」

「チェリスの旅一座の頃の話、また聞かせて貰ってもいいですか?」

「ええ。構いませんよ」


二人がそんな会話をしていると、商人がその会話に気づいて話しかけてきた。


「おや、あなた方もラウルホーゼンへ行かれるのですか?」


チェリスは僅かに警戒しながら、いつでも動けるようにルーシェとの間に位置取った。

無表情で男の質問に答える。


「ええ。そうですが。何か用でも?」

「いや、私もラウルホーゼンを訪ねるのですが、このような見目麗しい方がお二人も同乗されていたので、つい嬉しくなってしまいまして。旅も長いですし、よろしければ道中お話でもしませんか?」


チェリスはルーシェの方に視線を向ける。

ルーシェは少し頬を染めながら小さく頷いた。見目麗しいという言葉に恥ずかしさを覚えたのだろう。


「構いませんよ」


チェリスが警戒を解くと、男は隣に腰を下ろした。


男はラウルホーゼンで商売を始めるつもりだと語った。

現在ラウルホーゼンは人を誘致しているらしく、商人も積極的に受け入れているらしい。

王都で商売をするのも構わなかったそうだが、何しろ店を構えるにも金がかかりすぎる。そこで今勢いのあるラウルホーゼンで商売を始めることにしたそうだ。


どんな商売をするのかチェリスが聞くと、まだ具体的な事は考えていないらしい。

そんな心積もりで大丈夫かと思ったが、他人事なのでそれは口にしなかった。


「ラウルホーゼンに着くまで三日ある。よろしければ途中の宿で夕飯でもご一緒しませんか。勿論私が御馳走します」

「折角のお誘いですが、遠慮しておきます。食事は部屋でとるつもりですので」

「それは残念だ。なら今のうちに色々とお話をしておかないといけませんね」


それから商人は今まで自分がやってきた商売の話をし、ルーシェもそれに興味津々だった。

知識欲の旺盛なルーシェにとってこの上ない経験のようだ。やはり連れてきてよかったと、チェリスは内心嬉しく思っていた。


チェリスが男と話しながら、ふとルーシェの様子を窺い見る。

いつの間にかルーシェは外の景色に夢中になっていた。はるか後方に遠ざかっていく木々や、遠くに見える小高い丘。その先に広がる山々。

今まで王宮からしか見れなかった景色が、別の場所から見るだけでこんなにも違う。その光景に感動を隠せないようであった。





外が赤色から仄暗さを感じさせ始める頃には、ルーシェはすっかり寝入っていた。初めて尽くしの事が多すぎて疲れたのだろう。

チェリスは膝に乗ったルーシェの頭を優しく撫でた。


チェリスにとっても久方ぶりの外の空気に気持ちが軽かった。

何よりルーシェがこんなに喜んでいるのだ。チェリスはそれだけで満足だった。


車輪の音が途切れなく続き、客車の振動が昔を思い出させた。

不意に、そのスピードが緩やかになるのを感じると、ほどなくして馬車が完全に停止した。

陽が沈んだこともあり町についたのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。


入り口の幌を捲って外を確認すると、そこは鬱蒼と茂った森の中だった。

疑念と同時に不安が広がる。


乗り合い所から乗った馬車であったため安心していた。しかしこの光景を見る限り、普通ではなかったらしい。外に多くの人間の気配を感じる。どうやら囲まれているようだ。

チェリスは自分の不用心さに歯噛みした。


「降りろ」


御者が客車内に顔をのぞかせると、高圧的な物言いでチェリス達に命令した。

先ほど話していた商人もその態度に怯えを隠せないでいた。


チェリスはルーシェを起こすと、外へ出るよう促した。

その様子にただならぬ気配を感じ取ったのか、不安げな表情でチェリスを見た。チェリスは黙って微笑みかけると、ルーシェも真剣な面持ちでその言葉に従った。

他の乗客も続けて客車から降りる。


チェリスは周囲を見回すと、十人程の人間が馬車を取り囲んでいた。ならず者といった風貌から、おそらく賊の類だろう。

見たところそれほどできる人間はいないようなので、これなら一人でも何とかなりそうだった。


「おい。お前も降りるんだよ!」


御者が隅で寝ていた魔法使いを蹴り飛ばす。小柄な体がころころと入り口の方へ弾かれた。

そのままドスンと客車から地面に落ちると、『んがっ!』と間抜けな声を上げる。

魔法使いはむくりと起き上がると、事態が呑み込めないのか周囲をキョロキョロと見回していた。


「今日の獲物は随分上物そうだな」


集団の中の一人が御者に近づいて言った。


「だろ? まあ間抜けな客で助かったさ。さて。あんたたち貴族だろ? いつかこんな大物が釣れるんじゃないかと思っていたが、まさかこんな良いとこそうなお嬢さんが釣れるとはな。果報は寝て待て、てやつだな。ガハハ」


御者が下卑た笑い声をあげた。

どうやらこういった行為を何度も行っているらしい。救えないやつらだ。

チェリスはいつでも戦えるよう拳を握りしめた。


「こいつらどうする? 売り飛ばすか?」

「いや待て。売り飛ばす前にまず身代金だ。このお嬢ちゃんが貴族様なら、自分の娘助けるのに金に糸目はつけねーだろ。それからどっかの金持ちにでも高値で売り飛ばしゃ俺たちゃ一気に大金持ちだぜ」

「その前に俺たちでお楽しみだな」

「俺は黒髪の方貰うぜ」

「俺はちっこい方だ。女にしがみついて怯えた表情、そそるぜ」


チェリスの服を掴むルーシェの手が、ぎゅっと強張った。


男は涎をふき取るような素振りを見せながら、二人を値踏みするように視線を上下させていた。

実に下品なふるまいだった。チェリスはその態度に我慢の限界だった。


チェリスが男たちの前に歩み出る。

ルーシェは心配そうにその後姿を見送った。


先ほど涎を拭く仕草をした男がルーシェに近づく。


「なんだ? 我慢できなくて自分から求めにきたのか?」

「ああ。その通りだ」

「正直なやつは好きだぜ。お前は俺がたっぷり可愛がってやるよ」


下品な笑い声を上げながらチェリスの腕をつかんだ。

そのまま自分の方に抱き寄せようとするが、チェリスは微動だにしない。

男は力を込めてその腕をとる。が、どれだけ力を込めてもチェリスは動かなかった。


その様子に周囲の人間もただならぬ雰囲気を感じて身構えた。


「その下品な口をさっさと閉じろ。私が今からお前を可愛がってやる。ただし、私は少々激しいぞ」


チェリスは後ろに拳を引いた。男は怖気を感じ、直ぐにチェリスから離れようと後ろに飛んだ。


「がはっ」


男が着地をする前に、チェリスの拳が男の鳩尾にめり込んだ。骨の砕ける音が響き、瞬間男の体がとてつもない勢いで吹き飛ばされる。

背後の木にぶつかると気が大きく傾いだ。頭上から緑の葉がパラパラと降り注ぐ。


「なっ! この女、普通じゃねーぞ!」

「てめぇーら! この女はいい。殺せ!」


リーダーと思われる男の一声で、御者を含めた男たちはチェリスを取り囲むように陣形を組んだ。

全員が刃物や棍棒などの武器を持っている。徐々にチェリスとの距離を詰めるが、先ほどの攻撃を警戒してか一定の距離を保っていた。


チェリスは嘆息すると、腰を落として再び腕を後方へと引く。


「あなたたちに、本物の拳を見せて差し上げましょう」


そう言うとチェリスは前方に拳を振り切った。

拳が風切り音を鳴らす。木々がさらさらと揺れ、その葉を落とした。


ドンッ! という衝撃が遅れて到達すると、チェリスの前方にいた男数人が弾かれたように後方へ吹き飛ばされた。木にぶつかった男はそのままずるずると地面に、ぶつからなかった男は茂みの中に突っ込んだきり戻ってこなかった。


「敵を目の前にして味方に気を割くとは、なっていませんね」

「!?」


チェリスが男の耳元で呟くと、一瞬のうちにチェリスの掌底に弾き飛ばされた。

他の男たちがそちらに向いた時にはすでにチェリスの姿はない。

次に姿を現したのは別の男の背後。そのまま首を軽く絞めると男は意識を失い頽れた。


今度は見失うまいと刃物を持った男がチェリスへ向かって走り出す。男が刃物を振りかぶるが、それを振りきる前にチェリスが男の手を掴む。そして腹へと拳を叩き込んだ。

そのままその男を投げて背後にいる男を巻き込む。


その動作に紛れて再び姿を消したチェリスは、今度はリーダーの前に姿を現した。


「ひっ! 助け――――」


御者の後頭部を掴むと顔面から地面に叩きつけた。

ぐちゃっと嫌な音が鳴る。


「あとはあなただけですが」

「う、嘘だろ……」


御者の周りには盗賊たちが無様に転がっていた。誰一人起きる気配がない。

チェリスが拳を上げて御者へと近づいていく。

御者は腰を抜かしたのか、その場にへたりこんでしまった。暖かいものが御者の下半身に広がった。


チェリスは拳を振りかぶると、御者の顔面に叩き込もうとした。


「まて!」

「?」


声のした方を振り向くと、馬車の中で会話をした商人がいた。その手の中にはルーシェが捕らわれている。


「チェリス……」

「ルーシェ様!」


商人は厭らしい笑みを浮かべてルーシェに刃物を突き付けていた。

先ほど会話していた紳士な態度はどこにもなかった。


「この女を傷つけられたくなかったらゆっくりとその手を上げて跪け」

「くっ。卑怯だぞ」

「卑怯でもなんでもいいんだよ。正々堂々なんて俺たちの流儀に反するもんでな。それにしても、よくも俺の仲間たちをやってくれたもんだ」

「貴様も仲間だったわけか」


完全に油断していた。まさか客の中にも賊が紛れ込んでいるとは。

チェリスは再三の自分の甘さに腸が煮えくり返りそうな思いだった。

今回の事はすべて自分の甘さが招いたこと。それでルーシェを危険にさらすなどあってはならぬことだ。

命に代えてもルーシェだけは守らなければならない。


少なくとも今は、商人の言葉に従わなければルーシェが傷つけられる可能性が高い。チェリスは商人の隙を窺いつつ、その場に膝をついた。

御者がチェリスから遠ざかるように迂回すると、商人の横まで駆け寄る。


「女、そのまま動くなよ! おい。馬車の準備をしろ。こいつだけでも連れていく」

「へぃ!」


御者が馬車前方に周り出発の準備を整えると、商人がルーシェを連れて馬車に乗り込もうとする。

チェリスはまだ動けない。商人と距離があるため、今動けば刃物がルーシェに届く方が早い。

このままではルーシェが連れ去られる。

チェリスが絶望に顔を歪ませた時、意外なところから声が上がった。


「あんた、女の子いじめて何が楽しいわけ?」

「!」


商人の背後から聞こえた声に、皆がそちらに視線を向けた。

そこにいたのは山高帽を被って黒いマントを羽織った魔法使いだった。マントの下は何故かフリルのついた給仕服を着ている。

チェリスは最後の希望にと、魔法使いに向かって叫んだ。


「そこの魔法使い! その商人は盗賊だ。お嬢様を助けてくれ!」

「ははっ。魔法使いなんて近距離じゃなんもできねーんだよ!」


商人だった男はルーシェを抱えたままが魔法使いに襲いかかる。チェリスは同時に男に向かって駆け出した。

魔法使いに気を取られている隙に男からルーシェを取り返すためだ。

仕方ないが、魔法使いにはルーシェを助けるため犠牲になってもらうつもりだった。


魔法の発動まではインターバルがある。余程の使い手でなければ、目の前の刃物を持った相手に勝てる道理はない。

しかしチェリスのその予想は外れた。


飛びかかった男は魔法使いに手を掴まれると、そのまま空中に放り投げられる。背中から地面に叩きつけられると、魔法使いに踵で鳩尾を踏みつけられた。

肺から僅かに漏れた程度の声を上げ、そのまま地面に倒れ伏す。


その様子を見ていた御者は、慌てて馬車を走らせた。が、馬車はまったく前に進む気配がない。それどころか、車輪が回る音さえ聞こえてこなかった。

御者は恐る恐る背後を振り返る。


「どこ行くつもり?」


魔法使いが冷たい瞳を向けて、薄く微笑んでいた。


「えっと……ラウルホーゼ――――」


魔法使いの飛ばした魔法弾が御者に直撃し、御者の意識は刈り取られた。

魔法使いはそのまま宙に浮いた馬車をゆっくりと地面に降ろした。


目の前で巻き起こった出来事が信じられず、ルーシェは唖然としていた。

チェリスでさえ、目の前の魔法使いが放った体術に目がついていかなかった。魔法使いではなく拳闘士と言われた方がまだましだ。

しかし今はその答えを探すよりもルーシェの無事を確認する方が先だ。


チェリスは馬車に乗せられたルーシェの側まで駆け寄ると、どこも怪我がないことに安堵し、彼女を抱きしめた。

そして魔法使いに向き直り礼を言う。


「助けていただいてありがとうございました。どんなお礼でもさせていただきます」

「別にいいわよ。糞みたいなやつらだったし」

「ですが……」

「なら街に着いたらご飯奢ってちょうだい。それで構わないから」

「わかりました。とてもこのご恩に釣り合うようなものではありませんが、街に着いたら御馳走させていただきます」

「なぁに、良いってことよ。取り合えず街に行きましょうか」


そう言って魔法使いは馬車に乗り込む。いそいそと客車を通って御者台まで行くと、元の持ち主を蹴り落として手綱を取った。


「あの、あなたのお名前は?」

「私? 私はフラウ。しがない魔導士よ」

「フラウ様。私はチェリス。こちらは私の主人のルーシェ様です」

「ルーシェと申します。先ほどは助けて頂いてありがとうございました」


傍らにいたルーシェもフラウに礼を言う。スカートの両端を持ってちょこんと頭を下げた。アッシュブロンドの髪が風に揺れ、何とも優美な姿だった。

フラウはその居住まいに、どこかの引きこもりの家へ訪ねた時の反応を思い出していた。


「挨拶はいいから、早く乗りなさい。余り夜が深くなると魔獣が出るかもしれないしね。あ、そこで転がってるあんたも早く乗っちゃいなさい」


チェリスはフラウが声をかけた方に視線を向けた。

そこには黒い外套で全身を覆っていたもう一人の乗客がいた。現状を飲み込めていないのか、腰を抜かして呆然としている。

今は外套がめくれ頭部が露わになっている。まだ幼さを残す少年のようだった。


チェリスはルーシェから離れると少年を担ぎ上げた。そのまま客車に放り込むと、続けて自分も乗り込んだ。


「全員乗り込んだわね? じゃあ、しゅっぱーっ!」


そして馬車は街に向けて動き出した。街に着いたのはそれから数刻後の事だった。

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