成功の影には悲劇がつきもの
豪奢な家具や調度品で彩られた広い一室に、一人の男がこれまた豪華な椅子に腰掛けていた。身に纏う衣装も部屋の煌びやかさに見劣りしない。
その容姿は若く見えるが、どこか老成した雰囲気を醸し出していた。
男の目の前には淡い光を放つ水晶玉が置かれていた。男は水晶玉に向かって話しかける。
すると水晶玉から女の声が返ってきた。
「加減はどうだ?」
『お陰さまで。長く休ませていただきましたので』
「貴様がいつまでも悠長に構えているからそうなるのだ」
『……申し訳ございません』
「ふん。まあいい。敵に魔導士や闘士がいたのは想定外だったからな。だが、次はないぞ」
『わかっていますわ』
「ならいい」
男は徐に机の上のグラスに手を伸ばすと、赤いワインを口に運んだ。
グラスがテーブルに置かれ、コトリと音を立てる。
すると男は思い出した様に言う。
「そうだ。貴様にいいものを送っておいた」
『いいもの?』
「当初の計画のように秘密裏に戦力を動かすことはできんが、それを使えば王都の軍をその村まで引っ張ってくることはできるはずだ」
『一体どのような?』
男はニヤリと笑った。
水晶越しではっきりとした姿は見えないが、その空気は伝わったようだ。何も言わず、言葉を待っている。
男は唐突に答えた。
「卵だ」
『卵……ですの?』
聞き返すのも無理はないだろう。
卵が切り札と言われて疑問を持たない方が疑わしい。
男は女の反応に満足した。
「暫くすれば届くはずだ。どんなものかは、着いてからのお楽しみだ」
『……わかりましたわ。精々あなたの期待に応えられるようにいたします』
「今から約一か月後、卵が孵る。その頃に作戦を決行しろ。お前の手であの村を叩き潰せ」
『……仰せのままに』
その言葉を最後に水晶玉からの光は消え失せた。
男は椅子に体重を預ける。
「まったく。ヒドイことするよね」
男の背後から声がする。高くて透き通る、綺麗な声だった。
声の主がふわりと光の軌跡を描いて飛び出た。
それは人差し指の長さほどの小さな妖精だった。背中に羽が生えており、男の前でふわふわと漂っている。
「ほんと。キミはヒドイことするよね」
「何のことだ?」
「またまたー。グリエラの事だよ」
「……そのことか」
男は面倒そうに、グラスを手に取りワインを飲む。
妖精は男の周りを飛びながらニヤニヤと笑った。
「あの卵を使えばタダじゃ済まないってわかってて、グリエラにあんな命令出したんでしょ? 折角お家再興の為に頑張ってるのに、あまりに不憫じゃないか」
「なら俺を止めるのか?」
妖精はその言葉に、ふふふと笑みをこぼした。
「そんなことしないよ。だってその方が楽しいもの。知ってるでしょ? 僕は邪なんだから」
妖精は嬉しそうに部屋中を飛び回った。
その姿を見て男も笑みをこぼす。
「ふふ。今度の花火は久々に大きなものになりそうだ。グリエラには悪いが、この計画の礎になってもらうとしようか」
男は窓の外に浮かぶ月を眺め、これから起こるであろう出来事に笑みを深めるのだった。
フラウたちはバーボンの協力を得て、市場でトノアの手作りパンを販売していた。
店を出る際バーボンから言われたことは、この市場でパンを売って評判を広めろとの事だった。
「まず三週間。お前らはこのパンを市場で売れ。次の話はそれからだ」
「それからって、三週間もたったら残り一週間切っちゃうじゃない」
「問題ない。寧ろ三週間でも短いくらいなんだ。その間に、しっかりと王都中の人間にその味を知らしめろ」
それだけ言うと、根回しが必要とのことで、バーボンは何処かへ行ってしまった。
宿に帰った三人に届いたものが、販売場所の案内図と許可証だった。
今フラウたちがいる市場は、噴水広場と呼ばれている広場に存在していた。
噴水広場は王都のメインストリート上に位置している、巨大な正方形の広場だった。その中央に噴水があることから噴水広場と呼ばれており、ベンチなども多く設えられているため人々の憩いの場となっている。
外から来たものにとっては観光場所として、王都の人間にとっては待ち合わせ場所としても重宝されていた。
市場はこの噴水を中心に、四つのエリアに分かれている。
それぞれ雑貨エリア、冒険者エリア、食材エリア、屋台エリアと呼ばれていた。
同系統の店舗を極力固める事で、各店を効率的に回れるようになっている。
各店舗とも天幕が張られただけの簡易な店舗であった。しかしそこに並べられている商品は様々だ。
日用品などの雑貨が比較的多いが、食材やアクセサリー、古本に冒険者向けの装備品など、店舗の商材は多岐にわたっている。
また、王都は異国との交流も盛んなため、その内容も充実していた。
流石にメインストリートなだけあって人通りは王都でも指折りだ。
確かにこの場所なら、パンの宣伝には丁度いい。
バーボンの言葉を受け、フラウたちはせっせとパンの宣伝に努めていた。
「いらっしゃーい。おいしいパンだよー。ラウルホーゼン産の食材を使った、オリジナルのパンだよ。期間限定で販売してるから、今を逃したら王都ではもう食べられないよー」
フラウが声を張り上げ接客を行う。
トノアは店内で次々パンを焼き上げていた。
しかし二人が思った以上に、パンの売れ行きは芳しくなかった。
今フラウたちが出店しているエリアは雑貨エリアだ。
本来なら料理を提供するのは屋台エリアなのだが、急なことで空きがなかったのか、バーボンでも用意することができなかったそうだ。
仕方なく雑貨エリアでパンを販売しているのだが、やはり空腹を満たすために市場を訪れるものは屋台エリアに集まってしまう。思うように売れないのが現状だった。
「二人ともどんな調子だ?」
そこへ現れたのはグレイスだった。
久々の王都ということで、闘技場の仲間や剣聖の道場など、いろいろ挨拶回りをしてきたらしい。
そんなグレイスにフラウはぞんざいな言葉を投げかける。
「遅いわよグレイス。早く売り子手伝ってよ」
そう言うフラウの姿は、フリルのひらひらがかわいい白のエプロンと、格調高いメイド服を身に纏い、頭にはフリフリのカチューシャをつけている。
グレイスに駆け寄って来ると、ブロンドのショートカットが風にふわりと揺れた。
グレイスは心の中で、黙っていれば可憐なのにと心底残念に思った。
勿論グレイスの心はレイナ一筋だったが。
フラウは徐にグレイスに袋を突き出した。
グレイスはそれを受け取り、中身を改める。そしてポツリと呟いた。
「何だこれは?」
「売り子の衣装に決まってるでしょ」
そう口を尖らせるフラウ。折りたたまれた衣装を広げると、フラウと同じデザインのメイド服であった。
サイズは多少大きいようだ。
「今これが王都では流行ってるんだって。庶民が貴族気分を味わえるっていう画期的な手法よ」
「ほー。そうなのか。で、これをどうしろと?」
「決まってるでしょ。着るのよ」
「誰が?」
「グレイスが」
「…………」
グレイスは一瞬、この服を着た自分を想像しようとしたが直ぐに考えるのをやめた。
第一、自分の体格に合うメイド服などあるはずもない。
それ以前に、グレイスがメイド服を着て一体誰が喜ぶというのだろうか。元よりグレイスに女装の趣味はない。
グレイスはトノアにも同意を求めようとその姿を探した。するとちょうどパンが焼きあがったのか、奥から香ばしい香りが漂ってくる。
匂いの出所を持って、トノアが現れた。
「! トノア君、その格好……」
「グ、グレイスぅぅぅぅぅ!」
グレイスの姿を見つけたトノアは目に涙をいっぱい溜めて飛びついた。
『フラウが、フラウが……』としきりに呟いていた。
そう。トノアの格好はフラウと同じ、フリフリのエプロンがついたメイド服だ。
しかしヤサ男という面持ちのためか、意外にもその姿は似合っていた。すらっとした手足はまるで背の高い女性のようだ。茶色の短髪さえカツラで隠せば、一目見ただけではわからないかもしれない。
しかし今はカツラも何もつけていない。
傍から見れば、大の男に抱き着く女装男。
周囲の店舗の人間は、その様子に顔を背けた。
「そこ! 頬を赤らめるな!」
グレイスに指摘されたマッチョの店主が飛び上がって店の裏手に姿を隠す。
他の周囲の人間は完全に我関せずだった。
「そんなのいいから早くグレイスもこれ着なさいよ」
「馬鹿か。着るわけなかろう」
「なら無理やりにでも着させてやるわよ」
「なっ。キミは何でそんなとこで張り切るんだ!」
「問答無用! これもパンを売るためよー!」
「違う! それは明らかに逆効果だ! ま、待て! だ、だめぇぇぇぇぇぇぇぇ――――」
数分後、無理やり着替えさせられたグレイスが道のど真ん中に横たわっていた。
大股を開けてぶっ倒れており、ピクリとも動かない。
「うわぁ……」
「…………」
トノアの目から見てもその光景は悲惨だった。
サイズの合わないメイド服を無理やり着せられた大男。いくらグレイスがイケメンとはいえ、この姿にはこみ上げるものがある。これに比べればまだ自分は可愛い方だろう。
フラウも無理やり着せておきながら、グレイスの姿にドン引きしていた。
周囲の人間も一様にげんなりしている。通行人も遠巻きに見ているが、悲鳴を上げて逃げ出していった。こんなものがいつまでも横たわっていては、営業妨害以外の何物でもない。
するとこの騒ぎを聞きつけた衛兵が駆けつけてきた。
「どけどけ。邪魔だ。一体何の騒ぎだ」
その声に反応し、グレイスがむくりと起き上がる。
衛兵はグレイスの背後に来ると、その足を止めた。
立ち上がったグレイスの背中。背後からでも圧倒的な威圧感を放っている。それ以上に、圧倒的な不安感が放たれていた。
徐に振り返るグレイス。
がっしりとした腕。がっしりとした足。筋骨隆々の体に、はち切れんばかりの胸元。サイズが合わないからか、本来膝下まであるスカートが下着の見えないギリギリの位置までしか隠してくれていない。
「ギ、ギィヤァァァァッァァ!」
そのあまりの異形に、衛兵は悲鳴を上げると泡を吹いて気絶してしまった。
「先輩。ちょっと待ってくださいよ。せ、先輩!?」
後を追ってきた衛兵が気絶した衛兵を見て駆け寄る。
何度の衛兵の名を呼びながら体をゆすりるが起き上がらない。ふと目の前に何かを感じ取った。恐る恐る視線を上に向ける。
「うげぼぉぉぉぉぉぉぉ」
目の前に立っている者のあまりの気持ち悪さに、思い切り胃の内容物を吐き出した。
そのほとんどが気絶している衛兵へと注がれる。
胃の内容物をすべて吐き終えると、その衛兵はぐしゃりと吐瀉物の海に沈んだ。
後に残ったのは鼻につく臭気と、地獄絵図のような光景だった。
グレイスは独り、そのままの姿勢で佇んでいた。
「いやぁ。まさかグレイスさんだったとは。闘技場の英雄に申し訳ないことをしました」
「いや。こちらこそ驚かせて済まなかった」
「私もまさかあんなことになるとわ思わなかったわ」
はははと笑うフラウ。
グレイスはそんなフラウを睨みつけると、低い声で言う。
「キミは少し反省したまえ」
「……はい」
後片付けを終えた一行は、一先ずグレイスの恰好を元に戻して店舗の中に引っ込んだ。
表ではトノアが相変わらずメイド服を着たままパンを売っている。今度は化粧をしてカツラも着用済みだ。
一見して女性にしか見えないが、トノアの心の中は複雑だった。
「しかし王都から離れたと聞いていましたが、今まで何処へ?」
「ラウルホーゼンという国境の村にいましてね。そこで村興しの協力を。今は一時的に戻ってきて、こうしてパンを売っているわけです」
「先輩、この人誰なんすか?」
ゲロ衛兵が先輩衛兵に声をかけた。
先輩衛兵は驚きの表情で後輩を見た。
「お前衛兵のくせにグレイスさんを知らないのか!?」
「知りませんよ。俺が衛兵になったのついこの間なんですから」
「あー。そう言えばお前が王都に来たのは最近だったか。この人はグレイスさん。闘技場の英雄で、剣聖の右腕と呼ばれている」
「え、剣聖の!? めちゃくちゃすごい人じゃないっすか!」
「だから言ってるだろが」
グレイスはその反応に苦笑する。
ラウルホーゼンでもそうだったが、自分では結構名が知れてると思っていても、案外知らない人間も多いものだ。
「グレイス・ボーヴァンと言います。よろしく」
「お、おおおおお!!!! よ、よろしくお願いします! 田舎から出てきて初めて有名人に会っちまったー。スゲースゲー。しかも剣聖の右腕だってスゲー!」
「…………」
後輩衛兵は喜び飛び跳ねる。
あまりの喜びようにグレイスは差し出した手をそっと引っ込めた。
「あ、サイン貰ってもいいっすか? 背中にキルトへって書いてください!」
「バカもん! 勝手に貸与の制服にサインをもらうな」
「イテッ!」
先輩衛兵はキルトに拳骨を食らわせた。
キルトは悪態をつきながら殴られた頭をさする。
「サインを貰うならちゃんと色紙にしろ! グレイスさん。リッツへって書いてもらっていいですか?」
「あ、先輩ずるい」
リッツがグレイスに色紙を差し出す。
キルトが後ろからぶーぶーと文句を言った。
「は、ははは」
最早グレイスは笑うしかなかった。
グレイスからサインをもらった二人はホクホク顔だ。
「所でグレイスさん。村興しと言ってましたが、我々に協力できることは何かありませんか?」
「協力?」
グレイスは疑問を投げかける。会ったばかりの衛兵が、いくらグレイスのファンだといっても協力を申し出るとは裏があると思われても仕方ない。しかし衛兵は、存外真摯な態度だった。
「サインを貰ったお礼ですよ。それに、我々はここの市場を巡回するだけの仕事ですからね。たまにはこういうイレギュラーがないと、正直退屈なんですよ」
「先輩。それ副長に聞かれたら減給ですよ」
「大丈夫。知られなければ問題ない!」
そう言ってほくそ笑むリッツだった。キルトはしょうがないという態度だったが、どうやら満更でもないらしい。その考えを否定する気はない様だった。
真面目なのか真面目じゃないのか今一わからない二人であった。
「協力してもらえるのはありたいけど、具体的にどうするつもり? 私たちは全く策がないんだけど」
「んー。そうですね。理想は屋台エリアに出店できることなんですけど、こればかりは空きがない以上どうしようもないですね。となると、雑貨エリアにいながらどれだけ人を呼べるか。加えてこのエリアに来た人にどうやってパンを食べてもらうかですね」
「でも大体の人が屋台エリアで食べてから来るわよね。パンを食べる余裕ないんじゃないかしら」
「それもそうですね。万策尽きました」
「尽きるの早いわよ……」
結局何もいい案が浮かばない。ここ最近ずっとこんな調子な気がする。
するとキルトが不敵な笑みを浮かべる。
「どうしたんだ?」
「俺、いい案が浮かんだんですけど」
「え、何々? どんな案?」
フラウが思わずその言葉に飛びつく。
キルトは思わせぶりな態度で中々口を開こうとしなかった。
フラウが苛立ちを募らせると、キルトが肩をすくませてやれやれと口を開いた。
「俺の案を言う前に、一つ、俺のお願いを聞いてもらえませんか?」
「お願い?」
「そうです。この案が採用されたら、俺とデートしてください!」
グレイスはその言葉に戦慄した。リッツはキルトの我儘に嘆息する。
そしてフラウは、その言葉の意味を直ぐに理解できなかった。
やがて頭が回転しだして言葉の意味が分かると、その表情が赤く染まっていった。
「な、なに言ってるのよ! いきなりデートとか!」
「いや、一目惚れっすよ。まさかこんな運命みたいな出会いがあるなんて自分でも驚いてます」
「一目惚れって。そんなこと、急に言われても……」
フラウが恥ずかしさに顔を背ける。
グレイスは普段見れないフラウの態度に新鮮さを感じた。レイナもこんな感じになってくれるといいのだが。
そしてなおもキルトの暴走は止まらない。
「俺、こんな気持ちになったの初めてなんす。だから、お願いします!」
「……そこまで言うなら。一回くらいならいいけど……」
フラウがはにかみながらキルトに向き直る。キルトはその言葉に顔を綻ばせた。
「ほんとですか!? えっと、何て名前なんですっけ。あのパン売ってる女の子。いやー。一目見たときビビッと来たんですよー。俺の未来のお嫁さんは、この人しかいないって。ほんと可愛いですよね」
キルトが相貌を崩す。
グレイスは店頭でパンを売っているトノアに視線を向けた。
今トノアは頭に三角巾を巻いてパンを焼いていた。メイド服に、更にカツラを着用した姿は、見た目可憐な町娘と言われても気づかないかもしれない。
そんな呑気な事を考えていると、不意に背筋に冷たいものが過った。恐る恐る、その方向へ視線を向ける。
そこには俯き加減で半笑いのフラウがいた。
自分の事を言われていると思って勘違いしていたのだ。相当恥ずかしかっただろう。
その証拠に、握られた拳がふるふると震えていた。
グレイスはフラウが爆発する前にキルトの誤解を解くことにした。
「キルト君。盛り上がってるところ悪いが、彼女、いや、彼の名前はトノア。れっきとした男だぞ」
「……またまたぁ。闘技場の英雄がそんなくだらない嘘つくなんて情けないですよ?」
「いや、ほんとの事なんだが。トノア君」
「ん? なんだ?」
トノアが接客をやめて店舗の中へとやってくる。その際に三角巾を片手で外すと、暑かったのかカツラも一緒に外した。中から短めの髪が露わになる。
その姿を見てキルトが凍り付く。
「……。あの、トノア……さん?」
「あ、挨拶まだですっけ。トノアです。よろしく」
屈託のない笑顔で握手を求めてくるトノアに、キルトはおずおずと自分の手を差し出した。
しっかりと筋肉のついたその手が全てを物語っていた。
「は、ははは」
「どうかしたんですか?」
「いや、何でもない……です」
キルトは涙を堪えながら無理やり笑顔を作った。トノアは首を傾げながらも、再びカツラと三角巾を装着すると店頭に戻っていく。
こうしてキルトの短い恋は終わったのだった。
そのみじめな姿に、フラウとグレイスは同情の念を禁じえなかった。
リッツはそっとキルトの肩に手を置いた。
キルトが立ち直るまで、三人は暫くそうしていた。
「で、あんたの言ってた策は一体どんなものなの?」
キルトが立ち直ってからフラウが声をかける。
「はぁ~。え? 策?」
「気合い、入れなおしてあげましょうか?」
何処からか取り出した小さめの杖を手のひらにパンパンと叩きつけるフラウ。キルトは途端に背筋がシャキッと伸びた。上半身はフラウから遠ざかるように後ろに傾いでいた。
「遠慮しときます!」
「仕方ないわね。で、さっさと話してもらえるかしら?」
「えと……」
恐る恐るキルトが自分の考えを話し出した。
それは市場に来る人にではなく、市場で商売をしている人にパンを売るという考えであった。
市場に来る客は基本的には屋台エリアの食べ物が目当てだ。
それらの客は足しげく市場に通うのではなく、一度来ると暫くは市場に来ないことが多い。勿論常連客なども多いが、外から来た旅人や観光客なども多いため、市場を訪れる頻度は高いとはいえなかった。
逆に店舗を出している人間は、ほとんど毎日営業をしているので、常にこの市場に来ている事になる。
その人たちを相手にパンを売りさばけば、一定の収入が見込めるだろう。
更に市場で店を出すことは王都の人間のみに許されているため、その伝手で王都中にパンの噂が広がるというわけだ。
一番の問題は噂になるほどの何かが必要ということだったが、その点はトノアのパンなので問題ないだろう。
思いの外、キルトの案がまともであったことに他三人が驚いた。
普段バカそうに見えるが人は見かけによらないということか。
「で、俺たち衛兵にもそのパンを回してもらうんす。持ち運びもしやすいし、弁当にも使えると思うんですよ。一応公的機関ですし、きっと上の人たちにも噂は広がると思うっすよ」
「確かにそうだな。まさかお前がこんなに頭の回るやつだとは思わなかったよ」
「いえいえ。それほどでもないっす!」
しかしフラウとグレイスは見逃さなかった。キルトがよだれをふき取るところを。
さっき中に入るときパンをつまみ食いしていたが、どうやら自分のところにパンを回してほしいという考えも含まれているようだ。
とは言え、自分たちだけではこんな案は到底浮かばなかった事を考えると、キルトがこの場にいてくれたのは非常に僥倖だった。
善は急げ、ということで、その日から早速行動を開始する。
リッツとキルトはこの市場全体を仕切る衛兵ということもあり、他の店舗への取次は随分スムーズだった。また、フラウたちがバーボンの紹介を受けたという話も既に広まっており、殆どの人間が抵抗なくフラウたちを受け入れてくれた。
それだけバーボンの影響力がこの市場では強い様だ。勿論グレイスの威光も手伝っている。
その甲斐あってか、トノアのパンはあっという間に市場の人間や衛兵に広がっていった。外から来た人間も、パンの噂を聞きつけて店頭を訪れてくれる。王都中の人間にその話が広まるのに、さして時間はかからなかった。
3週間もする頃には、王都中が田舎から来たうまいパンがあるという噂でもちきりだった。貴族の間ですらその話が出るほどだ。
この3週間、トノアはずっとパンを作り続けた。しかし一人しかいない以上、一日に作れる数には限りがある。限定個数での販売となったのが、それがさらにこのパンの希少性を高めることとなった。
フラウはその結果に満足げだった。これならトノアが王都を去っても、トノアのパンを求めてラウルホーゼンを訪れる人間は必ずいるだろう。
ついでに暇があれば、パン以外の料理も提供していたので、運が良ければ舌の肥えた美食家なども訪れるかもしれない。
更に、トノアのパンの味が衝撃的だったのか、中にはその味を学ぼうと弟子入り志願するものが出てくる始末だ。弟子入りしたければラウルホーゼンに来いとフラウが吐き捨てたので、何人かは本当に村まで来るかもしれない。そうすればまた住民が増える。
とまあ、3週間にしては上々の結果を生むことができた。
「おぅ。暫くだな。嬢ちゃんたち」
「3週間振りね。ほんと、あれ以来一回も顔出さないんだから」
「構わんだろ。お前さんたちの願いは聞いてやったつもりだが?」
「ま、礼を言っておくわ」
バーボンはフラウたちが泊まっている宿に訪れていた。
今日が約束の一か月。
バーボンが指定した3週間がすぎた残りの日数、フラウ達は貴族に対してパンの販売を行った。具体的には貴族の屋敷に勤める料理人達に。
それもバーボンが話をつけた結果であり、バーボンは見事、フラウ達の期待に応えてくれたのだ。勿論フラウ達の頑張りもなくてはならなかったが、機会を与えてくれたのは間違い無くバーボンだった。
だからこそ、今度はこっちがバーボンの期待に応える番だ。
バーボンを席に案内すると、腰をドカッと下ろした。
今日は以前とは打って変わって、バーボンもきちんとした服に身を包んでいた。
それだけ今日のこの日を楽しみにしていたということだろう。何だかフラウも自分の事のように嬉しかった。
「バーボンに最後、料理を作ればいいんだよな?」
「ああ。一か月間、この日を楽しみにしてたんだ。頼むぜトノア」
「はいよ」
「じゃあ私も手伝ってこようかしら」
その言葉にバーボンがこの上なく不安げな表情になった。
トノアは苦笑すると、先に厨房へと姿を消す。残ったフラウがバーボンを見つめ返した。
「私もトノアほどじゃないけど、ちゃんと料理できるのよ?」
「その言葉を信じていいのか至極迷うんだが……」
そんなバーボンにグレイスはフォローを出した。
人手が足りない際、パン作りを手伝ったのは何を隠そうフラウだ。幼い頃トノアと一緒に料理を習っていたため、トノアほどでないにしろ一般の人間に比べると十分おいしい料理を作れるのだ。
その言葉に渋々納得したのか、バーボンはそれ以上何も言わなかった。
フラウが厨房に入ってすぐ、リッツとキルトが宿を訪れた。二人には色々と協力してもらったので、その恩を返すため招待したのだ。
二人ともトノアの料理の味は知っていたので、二つ返事でOKしてくれた。
「しかし、一か月前はこんな無茶な頼みをするやつが現れるとは思わなかったな」
「無茶を言って申し訳なかったです」
「いや。何だかんだ楽しかったよ。この年になると、楽しみなんて少しずつなくなっていくからな」
「私も、久々に退屈しないで済みましたよ」
「俺も楽しかったっす」
皆は口々に今回の思いを語った。
それから他愛ない話で盛り上がっていると、トノアが料理を作り終え運んできた。
残りの皿はフラウが魔法で浮かしながら運んでくる。
皆の前に料理が並べられた。
「魔物肉のシチューと自家製パン、それと付け合わせだ。シチューはまだまだお代わりあるから、遠慮なく食べてくれ」
鼻腔をくすぐる匂いに自然と口中に涎が溢れた。
皆はお互いの様子を伺いながら、やがてバーボンが先陣を切ってシチューを一口すすると、他の人間が後を追って食べ始める。
フラウとトノアも席に着き、皆と一緒に食べ始めた。
その日の食事会は随分と賑やかなものになった。
トノアが料理の作り方を説明したり、グレイスが武勇伝を披露したり、リッツが今までの事件簿を話したりと、終始皆の笑いは絶えなかった。
食事を終え一息つくと、バーボンが口を開いた。
「こんな楽しい時間を過ごしたのは本当に久しぶりだ。今日のこの場を与えてくれた神に感謝だな」
「あら。神じゃなくてわたしに感謝したら?」
その言葉にまた皆が笑う。フラウもつられて笑みを浮かべていた。そのまままた宴が再開される。
夜が更けるまでそれが続き、最後は宿の宿泊客からの苦情でお開きとなった。
帰り際、バーボンがトノアに呼びかけた。
「トノア。また一か月後、王都を訪れてくれるか?」
「俺も楽しかったし、必ずまた来るよ」
「そうか。……そうだ。お前さんにこれをやろう」
そう言って差し出したのはコック帽だった。
年季が入っているように見えるが、しっかりと手入れされているのか、シミ一つなく白さが際立っている。
「これはお前さんの父親が使っていた帽子だ。お前にやろう」
「どうしてバーボンさんが?」
「お前の父親とは昔縁があってな。よく飯を食わしてもらったもんだ。それでお前の味に驚いたわけだがな。で、旅をするってんで、その記念にもらったもんだ。これはお前が持っていた方が、あいつも喜ぶだろう」
バーボンはトノアの手に帽子を預けた。
トノアは暫くその帽子を見つめ、やがてバーボンを真っすぐ見ると、笑顔で礼を言った。
バーボンは薄く笑い、そしてリッツとキルトと共に宿を後にしたのだった。
フラウたちはその姿が見えなくなるまで、宿の前で三人を見送った。