新たなる計画
それから三ヶ月が経過しようとしていた。
相変わらずレイナとキレイは毎日剣を合わせている。半ばそれがキレイの仕事のようになっていた。
ソウガの頑張りのおかげで、彼らの家も無事完成した。
レイナやニナも時々お邪魔して、キレイとお茶を楽しんでいる。
立役者のソウガは家の中で若干孤立しているらしいが。
ソウガは家が建ったあとも村の家屋の建築に協力している。大工達からは筋がいいと言われて少し調子にのっているとキレイは嘆いていた。
ソウガがドラゴンを倒せるようになる日は果たしてくるのだろうか。
グレイスはと言うと、最近すっかり魔物退治にはまっている。
とは言え村周辺には大した魔物もいないので、少し離れた山中に潜っては、村に来る恐れのある魔物を狩っているそうだ。
この間は身の丈3mはあるグレートエイプという魔物を倒したそうで、なかなかの強敵だったと語っていた。
実はグレートエイプの胆嚢は薬の材料として高値で取引されているらしく、それを取ってこなかった事を知ったフラウがグレイスを散々詰っていた。それ以降グレイスは魔物の胆嚢や皮など、金になりそうなものを持ち帰るようになった。
今はいらないものまで持って帰って来る度フラウに詰られているが。
村の方もかなり発展してきていた。
建物が多くなってきたことで、商業区と居住区の住み分けがなされるようになったのだ。
ニナのゴーレムが街道の整備を行ったこともあり、今では街道から一直線に村を抜けるメインストリートができた。その周辺が商業区、その外側が居住区と区分けされたことで、発展の速度も著しく向上した。
また村に移住してくる人も少しずつ増えてきた。
グレイスに戦いを挑んでくるものや弟子入り志願のもの。トノアのパンの噂を聞きつけ遥々やってくるもの。
商いの匂いを感じ取って店を開きに来るものなど、様々だった。あとごく稀にフラウの育った村ということで尋ねてくるものもいた。
どうやら王都でのフラウの草の根運動が結実してきたようだ。
そんな訳で、現在一部の村人達は集会所に集まり机の前で次の作戦について話し合っていた。
「温泉とかどうだ? ここいらは山だからどっか埋まってるだろ」
「あるわけないだろじーさん。山ったって火山でもなんでもないんだ。温泉が湧いて出るわけないだろ」
「やっぱ名物がイマイチなのよ。村の名物がパンだけじゃどうしても集客力が足りないわ」
「うっせ。俺のパンを馬鹿にするな」
「そう言えば鉱山の観光化はどうなったの? まだ見たことないんだけど」
多種多様な意見が錯綜しており、全く話がまとまらないでいた。フラウは取り合えずその意見を書き出していく。が、身のある内容がなかなかでないことに溜息をつく。
「まず案を整理しましょ。とりあえず一つずつ、出来るか出来ないか考えましょう」
皆が書き出された案に目を向ける。
レイナが一番に口を開いた。
「ねぇ。鉱山はどうなったの? 観光できるようになれば結構楽しいと思うんだけど」
「鉱山……ね」
フラウの口が重い。
他の村人も何処か暗い空気だった。
同席していたニナはフラウに冷たい視線を向ける。
「実は鉱山で落盤が起こったのよ」
「え。誰かけが人が出たの?」
「ううん。けが人は出なかったわ。でも入口が崩れちゃって、今は作業が止まってるの」
「だから私のゴーレムが駆り出されてるわけですけど」
ニナが口を挟む。
グレイスや他の村人がいるからか、口調がいつもより丁寧だ。
取り合えず今はニナが落盤の瓦礫をどかして、作業再開に向けて頑張っているらしい。
しかし続いてニナが発した言葉に、レイナは頭の上に疑問符を浮かべる。
「まったく。フラウが余計なことをしなければこんな面倒掛からなかったんですけど」
「あ、あははは」
どうやらフラウが何かをしでかしたらしい。それで落盤が起こったと。
フラウのことだ。時間のかかる鉱山整備に業を煮やして、魔法で解決しようとしたのだろう。しかし失敗してご覧の有様といったところか。
レイナはその光景が容易に想像できた。
「と言うわけで、鉱山は当面保留ね。なので他の方面で頑張りましょう」
「ならこの町の名物とか、目玉になるものが必要なんじゃないかしら? もともと鉱山をそれに据えてたわけだし、鉱山がその有様じゃ代替品を用意するしかない。街道の整備も進んでるから人は来やすくなったんだし、後はこの村でお金を使ってもらえるようにしないと」
「名物ね。パン以外の名物。んー。グレイスもいるから闘技場とか作っちゃおっか」
「ずいぶん唐突だな」
「大々的な闘技大会とか開きましょうか。王都だと西側諸国からは人が来にくいから、いろんな国を巻き込んだ最強闘士決定戦とか」
「私は大歓迎だ。強い相手と戦えるのは闘士の本分だからな」
グレイスは喜び勇んだが、他の村人は納得していないようだった。グレイスと違って戦いが好きなわけではないので当然と言えば当然だが。
レイナが村人のフォローとばかりに言葉を付け加える。
「みんなあまり乗り気じゃないんだし、闘技場はやめといたら? それに闘技場作るのも大変だし、人を呼ぶにも時間がかかるじゃない。それこそ半年から一年は準備が必要よ。見合うだけの賞品も必要だしね」
「そうねぇ。ちょっと現実的じゃないわね。じゃあ闘技場はなしで」
その言葉を聞いてグレイスがガクッと肩を落としていた。他一同はホッと胸をなでおろした。
「やっぱり名物だよな。いくらトノアのパンがうまいと言っても、食べた人間しかわからないわけだからな。よその人間にはそのうまさがわからねーんじゃ仕方がない」
「そうよね。他の名物ったって、観光資源も何もないんだから。誰かさんが鉱山壊さなけりゃ」
皆の冷たい視線がフラウに向けられる。
無言のプレッシャーにさすがのフラウも表情が引きつっていた。
良案も浮かばず、皆がため息をついた。
するとフラウが何かを思いついたように顔を上げる。
「……みんな知らない?」
「どうしたのフラウ?」
「あ、いいこと思いついたかも」
「?」
フラウはトノアの方に向き直ると、ふふふと低い笑い声を出してた。
その不気味な様子に怖気を感じ、わけもわからずトノアは後退った。
ぐいぐいと詰め寄るフラウ。距離をとるトノア。
やがて壁際まで追い詰められたトノアは、目の前まで来たフラウに悲鳴をあげた。
その日村を訪れた旅人達は、恐ろしい叫び声を聞いたという。
「うぷっ!」
トノアは土気色の顔で馬車を降りた。
はるばる3日かけて、フラウとトノア、そしてグレイスは王都へとたどり着いていた。
グレイスは平気な顔で馬車を降りると御者に金を渡す。
流石に旅慣れているようだ。
「ニナ君はおいてきてもよかったのかい?」
フラウは王都へ来る前の様子を思い出す。
集会所にてフラウの考えた案はこうだ。
トノアのパンの味は王都出身のニナでさえ太鼓判を押す味だ。さらに村へ来た旅人たちにも同様に評価されている。
しかしその味を知らないものからすると、国内に王都のパン以上にうまいパンの存在など絵空事である。それが他国の話であれば、まだ信憑性があっただろう。
当初は旅人伝手に話が広がるのを期待していたが、それも時間がかかりそうだ。
力の差を見せつけた以上、グリエラたちもおいそれと手出しはできないはずだが、色々と早く対応するに越したことはない。
そこでフラウが考えたのが、こちらから王都にパンを持ち込みその味を知ってもらうこと。
そうすれば、その話を聞きつけたものがわざわざラウルホーゼンまでパンを求めて来ると考えたのだ。
一般庶民は流石に多くはないだろうが、パン職人たちはその味を確かめたくなるはずだ。
でなくとも、王都の住民に知ってもらうだけで、王都を訪れた者たちにも自然と噂は広まる。
そうすれば、いずれは他国からもラウルホーゼンに訪れる人間が出てくるようになるだろう。
そのためのメンバーとして選ばれたのが、トノアとグレイスだ。
トノアはもちろんとして、グレイスは王都では顔が広い。
色々な伝手を持っている分、話を広めるのにも一役買ってくれるだろう。
で、ニナはというと。
「なら私も帰りますね」
「え、ダメよ。だって鉱山の整備があるじゃない」
「誰のせいでこうなったと思ってるのかしら?」
ニナは白い目でフラウを見た。そう言われて返す言葉もないフラウは、半笑いを浮かべるしかなかった。
「元々王都から無理やり連れてきたのだから、ニナ君も連れて行ってはどうだ?」
「グレイス様!」
目を輝かせながらグレイスを見つめるニナ。
グレイスは華麗に無視をしながら言葉を続ける。
「鉱山の事はそう急がなくてもいいだろう。そうでなくとも、ニナ君にはゴーレムや召喚魔の事で色々と働いてもらっているんだ。たまには家に帰してやってもいいんじゃないのか?」
グレイスの言うことも尤もだ。他の村人もその言葉に納得している。
それだけニナのこの村での功績が大きいということを表していた。
皆のその反応にニナもまんざらではないようだ。
フラウもそのことは理解していた。
村の発展の一番の功労者を挙げるとすれば、それは間違いなくニナだろう。
しかしまだ彼女を返すわけにはいかない。
それにはある事情があった。
「ダメよ。ニナはここに残って、鉱山の整備を頼むわ」
「ちょっと。どうしてあなたにそんなことを決められなくてはいけないのかしら」
「どうしてもよ」
「……。それなら、私は勝手に帰らせてもらいます」
そう言って集会所を出ていこうとするニナに、フラウは杖を向ける。
ニナは思わぬフラウの行動に身構えた。
ただならぬ雰囲気に周囲の人間もざわつきだす。
「ニナはここに残りなさい」
「ど、どうしてよ。私だってたまに帰ったっていいでしょ」
「ここに残りなさい」
有無を言わせぬフラウの迫力に、ニナは震える声で言い返す。いつの間にかその話し方は元に戻っている。
フラウはニナに突き付けた杖を下すことはなかった。
剣呑な雰囲気に、集会所の誰もが何も言葉を発しない。
ニナはフラウから感じる確かな殺気にすっかり委縮してしまっている。目に涙をためながら、最後は渋々頷いたのであった。
「どうしてあの時ニナ君を許してあげなかったんだ?」
グレイスが非難がましい目つきでフラウを見た。
フラウは溜息を一つ吐き、嫌々な感じで答えた。
「グレイスにはあの子が引きこもりだって前に言ったわよね」
「あ、ああ。ニナ君のことを紹介されたときに。あの時ニナ君はだいぶ慌てていたな」
「そうね。それが答えよ」
フラウの言葉にグレイスは理解が追いつかなかった。
引きこもり、とは言え今はラウルホーゼンでレイナやキレイ達と楽しく過ごしているように見える。
一体何を心配しているのかとグレイスは疑問に思った。
直ぐにその答えがフラウの口から語られた。
「あの子、一度家に帰ると絶対また引きこもるもの。今回私たちが連れだした時だって、半年以上一歩も外へ出ていなかったそうよ」
「は、半年!? それはまた随分と長いな」
「でしょ? たぶん研究心が燻ってきた頃だろうから、今帰ってくるとまた半年は家から出ないわ。連れ出さないとそれ以上閉じこもるだろうしね。実はあの娘の親からも頼まれてるのよ。あの娘の家、結界張ってるから普通の人じゃ中々近づけないし。実家の使用人も近づけないから、仕方なく私のところに話しが来たってわけ」
グレイスはニナの家を思い出す。
あの時は気にも留めなかったが、あの異様な雰囲気。道中フラウの案内がなければ辿り着けなかったのかもしれない。
その話を聞いたグレイスは、フラウとニナの関係性を垣間見て、思わず笑みをこぼした。
「何よ?」
「いや、フラウ君は優しいなと思ってね。ニナ君のためを思っての行動だったわけだ」
「べ、別に優しいわけじゃないわよ。ニナに今帰られると、村の発展が遅れるから仕方なくよ」
「そういうことにしておこう。まあ普段はその優しさに余りある横暴ぶりだがね」
「グレイス。あんたぶっ飛ばすわよ」
フラウとグレイスはそんなやり取りをしながら、受付のため正門を目指す。グレイスがいれば顔パス確実なので大して時間はかからないだろう。
その後ろからトノアはよろよろと二人を追うのであった。
三人は商業区のとある店へと向かっていた。
その店は闘技場の支配人から紹介してもらった店だった。
数刻前、取り合えず行く当てもなかった三人は、闘技場の支配人を訪ねた。
久しぶりの再会も、グレイスを連れ出したことで散々愚痴を言われたが、どうやら今では別の闘士が活躍しているそうだ。
グレイスがいなくなったことで、他の闘士もやる気が漲ったらしく、結果的に闘士全体のレベルが向上したとのことだ。
「それにしてもどんな店なんだろうな」
「さあね。あの支配人が紹介するんだから、まともな店じゃないんじゃないかしら」
「フラウ君。少しは支配人の事を信用したらどうだ? あんなのでも慕ってくれる人間は大勢いるんだぞ」
「その言い方、全然フォローになってないわよ……」
商店が立ち並ぶ道を抜け、人通りの少ない脇道へと入る。先へ行くほどに周囲が薄暗くなっていった。それと共に、あたりには怪しげな商店が増えてきた。
ショーウィンドウに人の頭骨が並べられたり、猿の魔物の標本が置かれたりと異様な空気を放っている。
トノアはその雰囲気にややおびえ気味だったが、フラウは嬉々としてそれを眺めていた。
どうやら魔導士が使う道具類のようだった。
暫く進むと、一軒の建物に辿り着く。
一見しただけでは廃屋に見えなくもないが、看板がかかっていたのでかろうじて商店だと判別できた。
その看板には『ヨロズ屋』とだけ書かれていた。
「ここが支配人に紹介してもらった店よね」
「そのようだな。店の名前が聞いていたのと同じだ」
「マジでここに入るのか?」
「当然よ」
そう言ってフラウが扉に手をかける。
木の軋む音が響き、闇が広がる店舗の中に光が差した。
全開になった入り口から店内の様子が見える。
陽の光が差し込んでいるというのに店内は薄暗かった。
左右の壁には様々な魔物の絵がかけられており、設えられた棚には怪しげなアイテムが並べられている。
目の前にカウンターはあるが人の気配はなかった。
三人は店内に足を踏み入れた。
「ほんとにここがそうなのか? 誰もいなさそうだけど」
「んー。おかしいわね」
「しっ。奥に人の気配がある」
グレイスの言葉通り、店の奥からごそごそと人の動く音が聞こえてくる。
そのまま待つと、カウンター奥の扉が開かれ、一人の老翁が杖を突きながら姿を現した。
ぼさぼさの白髪に片目には眼帯をつけている。
「んぁ? 久しぶりに客が来たかと思ったら、堅気のもんじゃねーなぁ。誰の紹介で来た?」
「闘技場の支配人よ」
フラウが答えると、老翁は面倒くさそうにため息を吐いた。
側にある椅子にドカッと腰を下ろす。
「なんでぃ。あいつの紹介か。あいつが寄越してくる奴はろくなもんじゃないからな」
「ろくでもないのは支配人の方ね。私たちはもう少しまともな人を紹介して貰えると思ってたんだけど」
「言うじゃねーか。嬢ちゃん」
老翁はヒヒッと喉を鳴らす。
懐から酒を取り出すと一口呷った。
「ふぅ。で、今日は何の用だぃ? 嬢ちゃん中々見どころがありそうだ。話によっちゃ協力してやらないでもないぞ」
そう言いもう一口酒を口に含む。
飲みながらも鋭い双眸はフラウの事を観察していた。
「実はうちで作ってるパンを王都の人間に宣伝したいのよ。できるだけ早く、多くの人にね。貴族なんかにも紹介できるといいわね。あなたは商業区の顔役だって支配人から聞いてるから、そういったルートを知っているんじゃないかしら?」
「パン? そんなもんを売りたいってのか。随分物好きだな。それを広めて何をしようってんだ?」
「うちの村に人を呼ぶための呼び水よ。そのパンを求めて村まで来てもらおうって算段よ」
「そりゃ随分な皮算用だな。ただのパン一つを求めて村まで行くなんざ、普通の人間の神経じゃねーな。ましてや王都にゃパンは腐るほどある。それを置いて、お宅の村まで行くもの好きがいるとは思えんがね」
老翁はまた酒を飲んだ。
もうフラウの方に視線は向けていない。興味がなくなったように、視線は壁の絵に向けられていた。
「ちなみにどこの村だ?」
「ラウルホーゼンよ」
「ほぉ。あの村まだつぶれてなかったのか。鉱山が廃れて誰も行かなくなったと思っていたが。あの頃はよかったなぁ。娼館に飛び切り綺麗なねーちゃんがいたんだよ。俺ぁ少しの間、鉱山で働いててよ。よく娼館に通ったもんだ。懐かしいぜ」
「昔話はいいから現実に戻ってきなさいよ」
「はは。そのねーちゃんもあんたみたいなキツイ物言いだったよ。見た目は似ても似つかないがな。栗色の短い髪でまん丸した目が愛らしかった」
「こらこら。遠い目になってるから」
フラウの言葉に意識を戻す老翁。
現実に引き戻されたことにどことなく不服そうだった。
「ほんとに物怖じしない嬢ちゃんだな。だが、残念ながらあんたの頼みはきけねーな。ただのパンを売るために、何で俺が協力しなきゃなんねぇ」
「ただのパンって言うのは聞き捨てならないわね。トノア」
「あ、ああ」
トノアが前へ出ると、カバンから包みを一つ取り出した。
それをカウンターに置く。
「これは?」
「あなたの言うただのパン、よ」
トノアは自分も言ってるじゃないかと内心不服だったが、当然そんなことは口にしない。
黙って包みを広げると中からパンを取り出した。
出てきたのは丸いドーム状の形をしたパンだ。大きさは手のひら大ほどで、王都で一般的に食べられているパンとそう変わらない。
それを老翁へと差し出す。
「なんの冗談だこれは。こんな普通のパンを売り出すために、わざわざ王都まできたってのか? おめーら相当おめでたい奴らだな」
老翁は差し出されたパンを手ではじいた。
危うく取りこぼしそうになるのをトノアは寸でのところで堪える。
そのトノアの手からフラウはパンをつかみ取ると、それを無理やり老翁へと突き付けた。
「いいから。黙って食べなさい」
「んぐ!?」
無理やり口に突っ込まれたパンで危うく窒息しそうになる。
何とか口を動かしフラウに押さえつけられたパンを食べ進めた。
パンを半分ほど食べ進めると、老翁の表情が徐々に変化を見せた。初めは嫌々ながら頬張っていたパンを自ら食べ進める。フラウから無理やりパンを取り上げると、その断面を凝視した。
パンの内側は空洞になっており、そこに黒い塊が入っていた。
中身を確かめた後もう一口パンを齧る。
口の中に広がるのは甘辛い味わいとねっとりと絡みつく脂。舌の上でほろほろと繊維のように塊がほどけていく。噛みしめると分かる、それは脂ののった肉であった。
しかし口に残るのは爽やかな果実の香りだ。
老翁はゆっくりとそれを咀嚼すると、名残惜しいかのように喉の奥に流し込んだ。
暫くの余韻に浸ると、目を開けトノアを見る。
「これを作ったのはお前さんか?」
「あ、ああ」
「一つ聞きたい。お前さん、料理は誰に教わった?」
トノアが返答に困っていると、老翁は厳しい表情で聞いてきた。
「誰に教わった?」
「あ……。俺の親父だ」
「お前の親父さんの名は?」
「ブラウン。ブラウン・バレンタインだ」
「……そうか。そういうわけか」
「一体何なんだ?」
しかしトノアの質問に老翁は答えない。
黙って椅子に腰かけ、酒を呷った。
「嬢ちゃん。まだ肝心なことを聞いていなかったな」
「肝心なこと?」
「ああ。一番重要な事だ。あんたらに協力することで、一体俺にどんな見返りがあるってんだ?」
成る程。見返りとは、至極真っ当な意見だ。
相手も慈善事業をしているわけではない以上、自分にとって利のある話でなくては受ける意味がない。
そう言われて初めて気づいたのか、フラウの目は不自然に泳いでいた。
その場にいた誰もが、フラウのその様子に呆れ果てた。
恐らく聞いてもらえないときは力ずくとでも考えていたのだろう。
「はぁ。こりゃ参ったな。まさか何も考えずここに来たのか? 仕方ない。一つ、俺の出す条件を飲んでくれりゃ、あんたらの手助けをしてやる」
「条件?」
「ああ」
老翁はトノアに視線を移すと、柔らかく微笑みかけた。
その表情はどこか懐かしさを感じさせた。
「そこの坊主を月一回俺に貸し出せ。そして俺の飯を作れ」
「な! ちょっと待て。そんな条件飲め――――」
「その条件で問題ないわ! トノアを貸し出すから、私たちの手助けをお願い!」
「おい! 何勝手に――――」
「交渉成立だ。早速今日から頼もうか。なに。今日を過ぎればまた一か月後。その間に、このパンを王都中に広めてやるよ」
「俺の話を聞けー!」
こうしてトノアは老翁の食事の世話をすることになった。
フラウはホクホクした顔でトノアの肩をバンバンと叩いていた。グレイスはいつの間にか部屋の隅の様々なアイテムを眺めている。
誰も味方がいない現状に、トノアは脱力するしかなかった。
「そういえばあんたの名前、聞いてなかったわね」
「俺か? そうだな。バーボンと呼んでくれ。周りの奴らからはそう呼ばれている」
バーボンは久方ぶりに賑やかな店内に、調子よく酒のボトルを傾けた。が、一滴しずくが垂れただけで終わる。
空になったボトルを放り投げ新しい酒瓶を取り出そうとした。
しかし目の前の光景に手を止め、やがて笑みをこぼすと重い腰を上げた。