3.5歳児な問
医師の嫁の半分は看護師といわれるが、春樹の父と母もそうである。
出産後、外来で早番のみだった春樹の母は、彼が2歳の誕生日を迎える前に3交代勤務のシフトに戻った。幼稚園入園前の1年間、毎日亜美の家で春樹は過ごしていたし、父母が夜勤が重なった時などは、泊めてもらってもいた。
亜美と春樹は学年で2つ違うとはいえ、実年齢では1年違い。男女の性差があるとはいえ、春樹は同じ月齢の子よりも大きいほうだったし、対して亜美の方は逆で小さかった。春樹が1歳を過ぎて歩くようになり、走れるようになるころには亜美の身長を軽く超えていたのだった。
実際、亜美の母親に連れられて公園やスーパーで出会った知らない人の殆どは、「妹の面倒をみてあげて偉いねえ」と手を繋いだ二人に向かって声をかけるのだった。亜美の母親もしょっちゅう間違われるので、訂正するのも面倒になってしまい否定しなくなるまでに大した時間を要することはなかった。
そんな風に育ってきた春樹にとって、同じ年か自分の方が年上と思っていたとしても誰も彼を責めることはできない、と二人の母親たちは思っていた。
しかし、入園式終了後、亜美と同じクラスになれなかったと項垂れている息子に父が爆弾を投下することになる。
「亜美ちゃんは春樹より2コ上なんだし、当たり前だろう。そんなことより思いがけず同じ幼稚園に2年も一緒に通えるんだからラッキーと思わなきゃな」
2コ上ってなんだろう?
春樹はその時は父の言葉の意味がよくわからなかった。ただ、父に肘鉄を食らわした母の引き攣った笑顔に不安を感じたのだけは覚えている。
それでも幼稚園での生活が1年を過ぎ、亜美が年長になったころには、それまでの春樹の漠然とした違和感は確定にかわっていった。決定的だったのは亜美の卒園式。
なぜ入園式は一緒だったのに卒園式は亜美だけなのか。
既に答えは分かってはいたが、春樹は泣きじゃくり暴れまくり、手を付けられず、亜美の両親とともに出席するはずだった卒園式に彼は仕事を休んだ母と共に自宅に留めおかれた。
4月になり今度は亜美の小学校の入学式。流石に春樹は卒園式のようにはならなかったが、ぶすっとしていて、ついに一日中誰とも口をきくことはなかった。
やがて無情にも幼稚園で始業式の日がくる。一人で乗る幼稚園バス、私服の亜美に対して未だ幼稚園の制服を着る自分。嫌でも自分が年下なのだと現実をつきつけられた。
制服を着て一人でバスに乗る気にはどうしてもなれずに、年中になったばかりの3日間は幼稚園を休んでしまったのだった。亜美が原因の一時的なものとは分かってはいた母だが、急な休みを取れるのは2日が限度であった。3日目にはいつものように亜美の家に春樹をを預け、自分の息子のヘタレ加減に呆れ果てながら出勤していった。自宅では食事ものどを通らずスポーツドリンクで栄養補給していた春樹は2日間で20キロあった体重が2キロ落ちてしまった。体重の1割を僅か2日で落としてしまった春樹は見た目にも顔色も悪く、亜美の家に連れてこられた時間は亜美が学校に行ってしまってからだったので、亜美が帰るまで、ほとんど布団の中で過ごしていた。学校から元気に戻った亜美と久しぶりに顔を合わせた春樹はその時の衝撃を決して忘れることはない。
帰ってきた亜美は布団からよろよろと這い出して自分を出迎えてくれた春樹の様子に目にいっぱい涙をため込み、亜美の母が食事をしてない春樹のために用意したプリンを一緒に食べながら、春樹を元気づけようとたくさんの話をしたのだった。
担任の男性教諭のこと、新しくできたお友達のこと、幼稚園ではやらないお勉強のこと。
春樹を心配して涙ぐむ、そこまではよかった。
久しぶりの食べ物は春樹の身体の細胞が待ち焦がれていたものだった。
しかし、話の内容がよくなかった。
亜美は小学校の話を、春樹の全くついていけない内容ばかりを嬉々としてしゃべっていたのだ。
自分がいなくても亜美は歩いていけている、という現実。
自分は亜美がいないと食事ものどを通らなかったのに。
5歳の春樹にとってそれは驚愕の真実だった。
只々ショックだった。
話しの内容もそうだが、最早そういう問題ではなかった。
自分がいなくても亜美の時計は当たり前のように時間を刻む。
自分の時計は亜美の卒園式の日から狂い出し、入学式の日から、逆に回り始め、幼稚園バスに一人で乗る瞬間止まってしまったというのに。
分かった、ようく分かったよ、亜美。
春樹の中で確かになにかが変わった瞬間だった。
途中、一旦亜美の自宅に立ち寄り、亜美の母親から中学校の『入校許可証』を借りて、首から下げ、再び中学校のを目指す。
亜美は基本的に自分のいうことはきくが、あの強引なゆきとかいう女のことだ、亜美を拉致っていくかもしれない。春樹はいつも迎えに行く裏門ではなく、正門から出でくる可能性も考えて、万が一すれ違いになる事も考え、校舎の中で待つことにしたのだ。その為の『入校許可証』だ。
春樹の小学校でもそうだが、基本的にこの入校許可証を身に着けていない者、即ち保護者及び家族以外のものは、校舎の玄関のチャイムをならし、職員に開けてもらう必要がある。更に業者ならば社員証、地域の人でも免許証など基本的に写真付きの身元を証明するものの提示を求められ、来校目的と連絡先を記入させられた上、その日限りの仮の入校許可証をつけないと校舎に入ることはできない。
入校許可証は家族用と部外者用では色が違うため、一目で分かるのだった。逆に言えば家族以外でも、春樹のように借りてくることさえ出来れば校舎への侵入は容易い、ということだ。安全が確保されているようで、実際は抜け穴だらけ、ザル状態ともいえる。
この緊急事態にそんなめんどくせー手続きやってられっか!
春樹は心の中で毒づくと亜美の下駄箱のある昇降口の前までやってきて腕時計を確認すれば既にいつも亜美が教室を出る10分前であった。ジーンズの後ろのポケットからスマホを取り出すと、亜美の居場所が自分と同じ場所を示していることに一先ず安堵のため息を漏らす。
彼にとって10分は長い時間だったのか、一瞬だったのか、過ぎてしまえばどうでもよいことではあったが果たして亜美は下校目的の沢山の2年生に紛れて彼の待つ昇降口までやってきた。亜美の他に女1人、男2人とともに。
以外にもというべきか、やはりというべきか。
春樹は双眼にある二枚のレンズを支える黒のフレームの付け根をを左手で直しながら、先ほどスマホの位置情報を確認した人物を瞬きをすることなくじっと見据える。
はじめに見つめている人物と共に出てきた異性のうちの一人が春樹の存在に気が付き、もう一人もこちらを振り向く。次いで忌々しい女と続き、この昇降口から見える階段から降りてきた沢山の足音の中からでも直ぐにその音を聞き分けられていた人物は、話しかけても返事をしなくなった事に不信感を抱いたのだろう、驚いて固まっている拉致未遂犯の視線の先を辿ってやっと春樹の存在に気が付き、小さく彼の名を読んだまま、未遂犯と同じ表情をつくって固まってしまった。
なるほどね。
亜美の様子をみて春樹は一瞬で理解する。
犯人に丸め込まれたとはいえ、結局は拉致られる気満々ってとこか。
一言も発することなく己を射るその春樹の双眸に、例えそれが伊達とはわかっていても、どんなに薄かろうと、透明であろうと、レンズという衝立があってよかった、と心の底から思った亜美だった。