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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第三章 高原松子
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高原松子…二月・2

 美枝は平静さを失った。松子はただうなだれた。

「なのに何であんたはお母さんにそっくりなの……」

 美枝は泣き出した。顔を覆う。

「名前まで一緒」

「ごめんなさい」

「あんたが謝ることじゃないでしょ」

「ごめんなさい」

「謝らないで!」

 美枝は怒鳴った。涙は止まっていた。

「母がやったことの全てを謝りたいの」

「それはあんたのせいじゃないでしょ。いいの。大きな声を出してごめんなさい」

 二人はぐったりとテーブルに肘をつき、互いに違う方向を向いてしばらく黙った。松子はじっと三毛を見ていた。三毛は松子を見ている。すると、重い口が動いた。

「姉さん。手首の傷見せて」

 松子の言葉に美枝がギクリとした。

「何で知ってるの」

「いいから見せて」

 美枝は恐ろしいものを見るような目で松子を見た。

「お願い」

 松子は真剣な目をしていた。美枝はしばらくその目を見つめてから、黙って左腕をテーブルに差し出した。黒いセーターを捲る。それは想像ほど生々しくは無かった。

「赤く残ってるのね」

 松子はあの時のことを思い出して、恐ろしくなった。

「助かってよかったわ」

 美枝はポツリと言った。

「あの時後の人生は無いものだと思って、とうとう……。ざまあみろって思ったわ。お父さんと、あんたの母親」

「姉さんのお母さんは?」

 松子は嫌がる自分を無理に押さえ付けて、自分を突き落とすかもしれない一番恐ろしい質問をした。急に足が震えた。松子はそれを手で押さえ付けた。

 だが、意外な反応があった。美枝は表情を緩め、悲しい顔をした。

「何で私がお母さんを恨むの。お母さんが一番の被害者だったのよ。逃げてしまいたくなるほど、いじめられていたのよ」

 松子は耳を疑った。

「お母さんは逃げたのよ。恨まなかったの?」

「当たり前よ!」

 美枝は顔を覆った。

「病院で目覚めてしばらくして、お母さんが失踪したことを知ったの。私、安心した」

「どうして」

「どうしてって……。お母さん、良かったね、逃げられて良かったねって思ったのよ。母はこれで自由になれると思って。だって、あの家にいたら、母こそ未来は無かったもの。私なんかよりも」

 松子は塞き止めていた涙が一気に溢れ出すのを感じた。美枝は松子夫人を恨んでいなかったのだ。幸せを信じていたのだ。

 この感情は、どういうものなのだろう。喜びなのか、悲しみなのか、分からない。

「何であんたが泣くのよ」

 美枝が悲しいのかおかしいのか、どっちつかずの顔で言った。涙を何度も流したりはしない。美枝は昔から感情を激しく表さなかった。

「ただ、直接の原因は私だわ。自殺なんかして、母に一番大きな打撃を与えてしまった。それに私はあの時期散々母に当たり散らしたわ。お母さんのせいよって」

 松子は泣きじゃくる。

「出来ることなら謝りたい。ごめんなさいって」

 美枝の声が不安定に揺れた。松子は松子夫人として言いたいことが溢れだしそうになった。だが、懸命に堪えてやっと違う言葉を言った。

「そう」

 もう松子夫人はこの世に存在してはいけないのだ。

「母はどこかで幸せに暮らしていると思うの。でも分かってるわ。あの時すぐに、この世からいなくなってしまったのよ。でも、そう信じたいの」

 美枝は目をしばたたかせた。松子は心の動揺や、抑えていたものがこらえられなくなった。

「信じていいわよ。松子さんは幸せよ」

 松子はそれだけ叫ぶと、テーブルに顔を突っ伏した。

「ありがとう」

 美枝の手が松子の頭に触れた。松子はしゃくりあげる。

「あんたって、昔からよく泣いたわね。お母さんそっくりだって、よく嫉妬したのよ。私、母に似てないもの」

 美枝は笑った。

「今まで冷たくしてごめんね。いろんなことが、私をあんたから隔ててたの。

 でも大丈夫。もう平気。時間がたったらねえ、恨みは風化するの。あんたが去年電話してきたとき、もうあんたに謝りたいくらいの気持になってたのよ。電話、嬉しかった」

「うん」

「でも何で急に電話する気になったの?」

 美枝のその言葉に、松子はやっと顔を上げて笑った。

「それは秘密」

 

「じゃあね、松子。体に気を付けて」

 美枝はコートを着ながら靴をはいた。

「姉さんも。あ、子猫のこと、忘れないでね。あと一週間くらいしたら私が連れていくから、そっちの家族に言っておいてよ」

「分かった。でもその時は、普通の話をしましょうね」

 美枝は照れたように笑った。

「うん」

 松子も笑った。

「姉さん、今は幸せ?」

「ええ。孫はまだ無いけど子供は順調に暮らしてるし、夫は優しいし」

「良かった」

「でも、今はあんたが心配だわ」

「ほっといて」

 松子が化粧の取れた顔で顔をくしゃくしゃにした。美枝は微笑む。

「じゃあ、さよなら」

「さよなら」

 松子の中から、白い船の影は去っていった。もう、白い船は松子を連れていかない。

 四十年もかかった。それでもやっと、松子は美枝と通じ合うことが出来た。もう、全てを受け入れられる。今生きている生の、どんな醜悪な事実も。

 

「松子さん、ただいま」

 玄関が開き、繭子たちが帰ってきた。繭子は心配そうに顔を覗かせたが、松子の顔を見てホッと笑った。

 安西への挨拶もそこそこに、絹子が繭子にまとわりついている。絹子は繭子と会ったことで、やっと幸せになりつつある。白い船は絹子をも解き放とうとしている。

 三毛が松子に擦り寄って来た。松子は三毛を撫でた。

「いつも側にいてくれて、ありがとう」

 三毛はにゃあん、と子猫のような声で鳴いた。

 

 夜のアトリエで、二人は作業台の椅子に並んで座っている。破れたスケッチブックが散乱し、台は物を置く隙間さえ無い。

 絹子は久々に家に帰っている。仕事をする為には、彼女は保護者の同意が必要だ。

「白い船とこの二重の生について、考えてみたの」

 松子がにっこり笑った。

「もう、止めようよ松子さん。キリがないもん」

 繭子が目をくるりと回した。

「繭子は今、幸せでしょう」

「まあね。毎日が充実してる」

「私も幸せよ」

「良かった」

「だから、私は白い船のことも、この不思議な生のことも、もうそんなに悪いものだとは思っていないの」

「……私もそう思い始めた」

「自業自得だったのよ。私達のこの歪んだ出来事は」

 二人はしばらく黙りこむ。繭子が口を開く。

「おじいさんに感謝してる?」

「……さあ、それはどうかしら」

 松子はうっすらと意味の取れない笑顔を浮かべた。

 アトリエは子猫の鳴き声に満たされている。三毛は柔らかく目を細めて、喉を鳴らした。

 次の日から、松子はアトリエに転がったままだった杉の木を彫り始めた。

 何度もスケッチを見つめ、訂正し、ノミは何度も振り下ろされるのを躊躇した。

 金槌が慎重にノミを叩く。木屑が床にたまっていく。松子の手は、軍手に覆われているにも関わらず傷だらけになった。

 繭子は心配して、取り憑かれたような松子を眺めては、声をかけるのを躊躇った。壊してはならない空気がそこにある。

 松子が彫刻刀で細かい模様を入れる。瞳を削る。やすりをかける。

 それが仕上がる頃には、もう子猫はいなくなっていた。

 

 繭子と三毛と、三毛に似た黒い子猫が、周りに集まる。新しく削られた木の香りは涼しく、繭子は夢見るような目つきになった。三毛は静かに息子を尻尾でじゃらしてやる。

 彫刻の横に立った松子は、周りの三人に笑いかけた。

 椅子に座った大人の三毛。背もたれの頂点に小さな仏張面の少年が座り、三毛の後ろの部分には繭子と子猫の三毛のレリーフがある。繭子の手が送り出しているのは、椅子をつき抜けていく船。

 題は、『さようなら、白い船』。

 もう悲しみを拒絶したりはしない。


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