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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第三章 高原松子
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高原松子…二月・1

 あの時の衝撃は忘れられない。松子は目の前の光景を見ながらそう思っていた。

 今、繭子は絹子と共に一冊の本に見入っている。二人とも笑っていて、後ろに控えた安西に何か話しかけている。

 絹子は家出少女だ。あちらこちらの繋がりの浅い友人や男たちの家に泊まり歩いて生活していた。

 そんな絹子の暮らしに、松子は胸を突かれた。松子が家のことを尋ねると、不機嫌な顔になる。繭子のことを思うに、それは想像がつく。きっと繭子より酷い孤独の中に生きているのだ。

 絹子には学校に行くように説得したが、「あんなのあたしが行くところじゃない」と、冷たい笑顔を返された。仕方が無いので、家に帰りたくない日はうちに泊まるように、とだけ言っている。苦肉の作だ。だけど絹子の家族はそれでも何も言わない。

 絹子は繭子に完全になついている。繭子も盲目的に絹子を可愛がる。絹子の不始末――煙草、夜遊び、怪しげな男達との付き合い――を松子が注意すると、繭子がかばう。船の中の関係が復活したのかと思うほど、二人はべったりとお互いを受け入れている。これではどうしようもない。

「ねえ、寛」

 繭子が安西の名を呼ぶ。

「絹子にモデルの依頼が来てるんだよね。私、嬉しい」

 繭子は自分のことのように喜ぶ。

「いや、お前にもだよ」

 安西が苦笑する。繭子は真顔で答える。

「私はもう二十一の年増だし、ピアニストになるからやるとしても寛か小島さんのモデルしかやらないよ」

「ピアニスト、なれるの?」

「分かんない。でも今度コンクール出ることになった」

「おめでとう」

 安西が優しく微笑む。しかし繭子は顔をしかめる。

「それより絹子のこと、小島さんによく言っといてよ。絹子は仕事しなきゃいけないんだから」

 実際、そうしなければ手は無いように思えた。絹子の生活は惨嘆たるものだ。

「モデルになったらまともな生活出来るかな」

 絹子は心配そうに安西に尋ねた。安西は困ったような顔をする。

「頑張り次第だな。人気モデルになったらそうなれる。でも大変だと思うよ」

「やだなあ。それにピアス減らして、髪の毛を茶色にしなきゃいけないんだって」

「その色だとメジャーな雑誌に載って、広い人気を得るのは無理だよ」

 安西がにっこり笑う。

「あ、馬鹿にした」

「寛、絹子を馬鹿にしないで」

 繭子が安西を睨む。二人の絆は強い。安西はたじたじになって、溜め息をつく。

「三毛、この二人はレズだよ。俺参っちゃうよ」

 安西が悲鳴めいた声で三毛に話しかけた。三毛はリビングのストーブの側の箱の中にうずくまり、安西をじっと見た。足元に小さくうごめく物は、一匹の黒猫を覗けば全て三毛猫だ。

「三毛の子猫、誰かにあげるの?」

 絹子は松子に尋ねる。松子はリビングでぼんやりと三毛を見る。

「ええ。まず、一匹はうちで飼うわ。そのくらい余裕あるし。後は小島さん、木下さん、扶実が一匹ずつ貰ってくれるって」

「一匹余るじゃん。安西飼えば?」

 絹子が安西の袖をぐいぐい引っ張った。安西は松子にも言った言葉を繰り返した。

「俺は貧乏だから、ペット飼えないアパートに住んでるの。無理だよ」

「えーっ」

 絹子は三毛を見てすぐさま気に入っていた。不思議なものだと松子は思う。――あと六年だね。繭子は言う。恐らく、六年後に船の絹子の年齢に達すれば、絹子は松子たちのように記憶が合流するだろう。

 その時、誇り高い船の絹子とこの汚れた少女は相入れるのだろうか。それが心配だ。

「あと一匹……」

 松子は呟いた。松子には、あと一つ、解決していないものがある。

「あんたたち、二時になったらどこかに行ってね。お客さんがあるから」

 松子は三人に言った。酷く疲れた様子で。

「じゃあ、俺が映画に連れてこうか。小島先生から給料貰ったばっかなんだ。奢るよ」

 安西が二人に笑いかけた。絹子が嬉しそうにはしゃぐ。繭子はこわばった顔で松子を見ている。

「あ、二時五分から見たいのがある。もう一時半だよ。早く行こう」

 絹子が携帯電話を覗きながらわめく。

「げっ、アニメ映画じゃねえか」

「いいじゃん。見よう」

「繭子、アニメでいいの?」

「私はいいよ。絹子が見たいんだから」

 安西がまた溜め息をつく。

「あー、お前らは本当に……。松子さん、夕方には帰しますから」

 安西が微笑む。何も知らない笑顔だ。

「いってきます」

 繭子は、強い視線を松子にあて、出ていった。

 松子は溜め息をつく。覚悟が必要だ。今日、彼女はどうしてもしなければいけないことをすることにした。とても、怖い。

 

「こんにちは」

 松子はビクリと肩を震わせた。しわがれた声だ。電話で散々聞いた声だが、直接聞くと何かもの悲しい感じがする。

 時計を見る。二時五分前。あの子らしい几帳面さだ。松子は泣きそうな顔で笑った。そして椅子から立ち上がる。

「はい。姉さんでしょ。いらっしゃい」

「お邪魔します」

 松子の目の前で、古い玄関の木戸がガタガタと開いていく。松子の心臓が早鐘を打つ。

 木戸に引っ掛かった白い手が見えた。次に、細い足が。

「松子……」

 松子夫人の娘であり、松子の姉である美枝は、痩せて皺のよった顔を松子に向けた。老いさらばえていた。それはそうだ。もう五十八歳なのだ。

 松子は全てのしがらみと対決するため、六年ぶりに美枝に会うことにしたのだ。先週、記事は見付かった。横浜の貿易会社社長夫人の失踪記事だ。小さな記事だった。

 もう観念するしかない。松子はそう思った。松子夫人としての自分は酷く脅えている。しかし二つの生は合流してしまった。やらなくてはいけない。

「いらっしゃい」

 声が震えた。美枝は松子をぼんやりと見つめ、すぐにハッとして笑った。

「久しぶりね。何だか凄いところに住んでるからびっくりしちゃったわ」

「一軒家の割に安かったのよ。アトリエもあるし」

 松子の声の震えは止まらない。

「あんた、声が変……」

「上がって。ほら、子猫が生まれたのよ。可愛いでしょ」

 松子は三毛を振り返り、「私を守ってね」と心の中で念じた。三毛は返事をするように鳴いた。子猫がうごめいた。

「横浜だもの。東京はあっと言う間ね」

 美枝は言った。

「ごめんなさい。近いのに何年も帰らなくて」

 松子の震えは収まっている。

「帰りにくかったんでしょ。分かってる。うちで父さんを引き取ってからは、ますます来なくなったわね」

 松子は黙りこんだ。息苦しい。

「父さんは元気よ。この間、久々に言葉らしいことを言ったの」

「本当に?」

「ええ。何て言ったと思う?」

「何?」

「『松子。お茶を持ってこい』」

 松子の息が上がった。それでも努力して声を絞りだす。

「へえ。私のことを思い出してくれたのかしら」

「どっちかしらね」

 冷たい声がそう言った。美枝の細面は固く、笑顔が見えない。

「どっちって?」

 震えはもう隠せない。

「分かってるんでしょう。私の母の名前よ」

 美枝は罪人につきつけるように、そう静かに切り出した。

「知ってたんでしょう。母の名前。その時どう思った?」

 美枝の言葉は淡々としている。電話での声はもっと弾んでいるのに。しかし理由は分かっている。

「私、松子さんにそっくりなんでしょう」

 松子がぽつりと言った。美枝が黙りこむ。

「私の母は、酷い人だったんでしょう」

 美枝は首を曲げて、テーブルを見つめている。

「松子さんが失踪したのは……」

 美枝がテーブルを強く叩いた。

「そうよ! あんたの母親がお母さんをいじめたのよ。私にも酷いことをしたの。だから母は家にいられなくなったのよ!」


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