高原松子…十二月・3
始まりと同じ優しい一音で、曲は終わった。繭子はお辞儀をして、舞台袖に去った。拍手は、歓声は、すさまじいものだった。
「綺麗だったねえ」
小島が感激して人一倍激しい拍手をする。
「流石俺が見込んだ女性だよ」
「松子さん」
安西が松子を見ていた。目をしょぼしょぼさせて、泣いている松子をどう扱うべきか、さっきから思いあぐねていたのだ。
ざわめきが起こった。松子は静かに顔を上げた。赤いものが、走り寄って来る。
勢いよく、繭子が松子に抱きついてきた。松子は繭子の頭を撫でた。繭子は嗚咽を鳴らして泣いていた。小島は呆然とそれを見ている。会場の人々も同じだ。
「出ましょう」
安西が繭子の肩に触れ、外に連れていった。うなだれた松子と、不思議そうな小島を後に従えて。
静かな広間に出ると、繭子は一層目立った。明るい光が少し曇った大きな窓から差し込む。赤いドレスは明るい場所では派手すぎる。
繭子は今度は安西の首にしがみついて泣いていた。安西はおろおろしながら、繭子の肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「繭子、どうしたの?」
後ろから、学生らしい女の子達がやって来た。お互いに顔を見合わせ、戸惑いながら繭子の横に並んだ。松子は驚いた。
「あなたたち、繭子のお友達?」
繭子は誰とも繋がることが出来ないと、この間言っていたのに。
「そうです。あの、繭子は……」
松子は全身がすうっと軽くなっていくのを感じた。繭子の運命は解き放たれていっているのだろうか。『誰か』は繭子をその手から逃したのだろうか。
「大丈夫。ちょっと事情があってね、繭子はあの曲には思い入れがあるのよ。だから感傷的になってるの」
松子は繭子の友人たちに微笑みかけた。彼女たちは本気で繭子を心配している。松子はめまいの起こりそうな感動に包まれていた。変化が訪れている。
「それならいいですけど……。元気になったら、打ち上げに来てね、繭子」
大柄な女の子が繭子に声をかけた。繭子は震えながら頷いた。
「ごめん、今は振り向けない。打ち上げでね」
「うん。じゃあね。ピアノすごく良かったよ」
彼女たちは去っていった。それからしばらく経っても繭子はまだ安西の首を離さない。小島が心配そうに繭子に声をかける。
「何があったか知らないけどさ、泣かないでよ。安西が目をシパシパさせて驚いてる」
繭子はのろのろと安西から手を離した。下を向いて、しゃくりあげる。安西はほっとしつつも、繭子を気遣う。
「大丈夫ですか?」
「うん」
「ハンカチ貸しましょうか?」
「うん、ありがとう」
繭子は安西から茶色いハンカチを受け取って、化粧が崩れるのも構わずゴシゴシと顔をふく。安西がまた慌てる。
松子は何か不思議な暖かい気分に包まれて、二人を見ていた。繭子は正しい人生を歩き始めている。今回のあの曲は、絹子への別れの証だ。
繭子に関してはもう安心だ。のこるは私だけ。
「ねえ」
突然、放り投げるような乱暴な声が耳に届いた。
「柚木繭子ってあんたでしょ。ピアノ聞いたよ。凄かった。ねえ、何で泣いてんの?」
繭子は動きを止めた。衣ずれの音さえ立てなかった。松子は横に立ったその少女を見て、震えていた。何と言うことだろう。
「……あなた、絹子ってお名前?」
繭子の声がする。かすれ声だ。
「何で知ってんの? そうだよ」
次の瞬間、悲鳴が聞こえた。松子が振り返ると、繭子は安西の腕の中で気絶していた。
辺りが騒然となる。
松子は、髪を白く脱色し、耳や唇にピアスを大量に付けた、汚れた肌の少女を見つめていた。火のついた煙草を指に挟んだまま、十五歳程にしか見えない彼女は呆然とそこに立っていた。