高原松子…十二月・2
「この猫、確かにいいですよ。俺も撮りたいな」
安西が三毛に近寄る。三毛は片目で安西を見る。そこに陶芸家の木下が何かを含んだような言い方で、安西に声をかけた。
「写真集に収めたいね」
松子と永井が苦笑いをした。小島が下唇を出す。安西が上目遣いで繭子を見る。繭子はわけが分からない。
「あの……」
「実はね、繭子さん」
小島の言い方が改まった。
「これを見てください」
足元に置いてあった、一冊の本を取り出す。きらめく川の流れの中で小さく蹲る女性の写真が表紙だ。
「写真集ですね」
それを受け取った繭子は呟き、ページをめくった。
バレエのレッスンでバーに足を掛ける小さな女の子。プードル犬を連れた若い女性。ベンチで会話する老いた女性たち。
「女の人ばっかり」
繭子は呆れて溜め息をついた。小島は照れたように笑った。
「長年エロ写真を撮り続けたもんだから、女性の美ってものを私は愛しているんですよ」
「綺麗ですね」
様々な年齢の、様々な女性たち。どの人も特別な感じはしないのに、どれも美しかった。
「これ、出版社に頑張ってかけあって、やっと少部数出したんですよ。大して売れなかったけど。あの、繭子さん」
「はい」
小島は真剣だった。酔いも覚めているようだ。
「第二弾に出て下さい。あなたはとても綺麗です。普通の女性にはない、何か不思議な物を含んでいます。まるで見た目の若いお祖母さんみたいな」
「ちょっと」
永井と山下が笑った。松子と繭子はギクリとした。やはり、見える人間には繭子の特別な部分が見えるのだろうか。
「で、早速一枚撮らせて頂きたいわけです」
小島がにっと笑って早速カメラを出した。ファインダーを覗き、もう撮る気は満々だ。
「ちょっと」
繭子が立ち上がると、安西があの犬に似た目で頼み込む。
「先生のためです。お願いします」
繭子は黙りこむ。
「ピアノと一緒に撮りたいなあ。繭子さん、お部屋にグランドピアノはありますか」
小島は意気揚々と天井を見上げるが、一同は唖然としている。繭子は溜め息をついた。
「ありますよ。さあ行きましょうか」
繭子はサッと立ち上がって、嬉しそうな小島と申し訳無さそうな安西を連れ、二階へと上がった。
「それじゃあ、気を付けて下さいね。特に小島さん」
松子は小島、安西、木下の三人に頭を下げた。
「大丈夫だよ。写真撮ったからもう醒めた」
小島は幸せそうに笑い、口をヘの字にした繭子に手を振った。しかし安西が笑いかけると、途端に繭子は微笑む。
「ちっ、安西ばっかり贔屓するなあ」
小島は不満そうに下唇を突き出して地面を蹴った。松子達が笑う。
「それじゃあ、出来た写真はすぐ送ります。他の写真も、よろしくお願いしますよ」
繭子は根負けして、小島と写真集の撮影の契約をしていた。
「木下さんはどうされます?私は松子の部屋に泊まりますけど」
永井が老人のような木下を心配して尋ねた。
「小島さんが泊めて下さるそうで。明日朝、電車で戻ります」
木下が答える。
「良かったわ。じゃあ、帰りは気を付けて。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
アトリエは静かになった。三毛はあと片付けをする松子に寄り添い、やれやれといった調子で腰を下ろした。永井は松子の部屋に荷物を置きに行っている。
「三毛には子供がいるんだね」
繭子が横にいた。
「変な感じ。何年も子猫だったのに」
三毛はゴロゴロと喉を鳴らした。腹部に不思議な幸せを感じながら。
「……松子さん」
「何?」
「私、クリスマスコンサートで好きな曲を弾けることになったんだ」
繭子の声は穏やかだった。
「ちゃんと聴いてね」
松子は笑った。テーブルの上は何事も無かったかのように片付いてしまった。
「赤いドレスを着るんでしょ。あんたの一張羅」
「うん」
繭子はにこりともせずに答えた。
「とにかく聴いて。三毛は赤ちゃんが出来たんだよ。新しいことが起こり始めてる。だから私も何かしなくちゃいけない」
松子は思いつめた様子の繭子をじっと見つめた。何があるというのだろう。密かな予感はした。繭子の目は暗く、光は鈍かった。
「絶対、約束」
クリスマスはあっという間にやって来た。この間繭子は学内での練習に明け暮れていたようだった。声楽の伴奏と繭子の独奏。伴奏の練習はともかく、独奏の曲が松子に聞こえないように練習されていることは、松子に不安を与えた。
繭子は今日、大学のこぢんまりとしたコンサート劇場で、ピアノを弾く。たくさんの若者や、中には講師らしい人間が目につく。
赤い幕が引かれ、繭子が壇上に上がると、拍手がなり響いた。赤い、胸を開けたドレスを着ている。歩く度に光る絹のドレスだ。船にいた時を思わせるような妖しい美しさが、繭子にある。
悲鳴のような歓声が上がる。大学で評判の美人ピアニスト。それだけで十分集客力はあった。会場は満席だ。
「凄いねえ」
小島がニコニコと笑った。
「こんなに人気者だなんて」
松子は驚く。文化祭の時よりも更に人気は上がっているようだ。
「綺麗ですね」
安西が子犬のような小さくつぶらな目を、しょぼしょぼとさせる。
歌は案の定で、クリスマス・カロルから始まった。透き通るような合唱に合わせて、繭子は微笑みながら体を揺らす。松子の耳に、繭子の姿にうっとりとした、女子学生の囁き声が聞こえる。
松子がこっそり笑いながら会場を見渡すと、前の方に妙なものが目についた。暗い場所にも関わらず酷く目立つ、白い頭。あれは、何だろう。老婆ではない。ショートカットの小柄な女の子だ。
しかし曲が終わって皮膚を震わすような拍手の音が聞こえると、そんな思いはいつの間にか吹き飛ばされた。
「次のプログラムは、柚木繭子さんが独奏する、ドビュッシーのピアノ曲『月の光』です」
松子はハッと目を見開いた。えんじ色の幕がゆっくりと開く。繭子は、舞台の中央でピアノに向かっている。その目は真剣だ。
繭子は、絹子との思い出の曲を選んだのだ。松子は何か悲しいような、虚しいような気分に浸る。絹子はいない。だけど繭子は今でも追い求めている。
優しい最初の一音から滑らかに曲は始まった。繭子の瞳が瞼を伏せたようにして、鍵盤を見つめている。大きな手の、細長い指が踊り始める。
松子はその旋律を聞きながら、船を想った。ピアノを弾く絹子の後ろ姿が瞼に浮かぶ。
白い壁、白い天井、白い階段。何もかも白い砂糖細工の船。
静かな人々。彼らはただ何をすることもなく生きていた。永遠の不安から逃れることも出来ず、逃れる気も無く。
子猫の三毛が、松子の目の前を歩いていく。リズミカルに、素早く動く三毛の足取りを追うと、広く白いロビーに出た。
そこにいるのは絹子と繭子だ。彼女たちは花びらを食べながら偽滿に満ちた会話を交して笑い合っている。スチュワートが鳥籠に多い被さるようにして黄色いカナリヤに話しかけている。
少年は、床に座って不満そうに口を曲げている。彼は一人だけ、船が嫌いだった。船の人々を嫌っていた。しかし三毛を見ると途端に笑顔になった。そして松子を見て叫ぶ。
「マツコ!」
三毛はロビーを出て、船の甲板に出る。真っ直ぐに歩いていく。舳にいるのは、真っ白な老人だ。三毛が呼び掛ける。老人は振り向いた。泣いている。老人は、果てしない悲しみに捕われ続けているのだ。
急に涙が出てきた。理由はよく分からない。いきなり老人や白い船に対しての怒りではない感情が生まれたのだ。
そうだ。哀れみだ。あんなに悲しい人間は、あんなに虚しいものは、他に無い。哀れむべきは、捕われた船の人々ではない。老人だ。
松子は止まらない涙をそのままに、泣きそうな顔でピアノを弾く繭子を見つめながら、白い老人を想った。
繭子の唇がきつく結ばれている。哀れなのは絹子も同じだ。彼女は白い船でしか生きられない人間だ。老人のように。彼女はどうしているのだろう。




