高原松子…十二月・1
平日のある日、アトリエは今までに無いほど騒がしくなっていた。外は暗い。冬の夕暮れほど寂しいものはない。しかしこの木戸の向こうは違う。
「ねえねえ、ビールもう一つ」
男のしゃがれ声が響く。
「またですか。今何杯目だと思ってます?」
低い女の声。
「五杯目でーす」
「わ、出来上がってますよ、この人」
「ねえ、繭子ちゃんまだ?」
また男がわめく。
「繭子はまだ学校。多分、出来るだけ帰らないようにしてますね」
笑いを含んだ松子の声。
「繭子ちゃんに会いたーい」
「一回会っただけで、よくそこまで執着できるねえ」
落ち着いた壮年の男の声。
「だって撮りたいんだもん。木下さんだってはまってたでしょう」
「そりゃあそうだけど、あそこまで嫌がられちゃねえ。私はもう諦めました」
「ねえ、安西くん。この人いつもこんななの?」
また女の声。
「そうですね。先生いつも繭子さんのこと言ってますよ。最高の被写体だって」
新しく、若い男の静かな声が聞こえる。
「そうだよ安西。俺は繭子ちゃんを撮りたいんだ!」
「もう、うるさいなあ」
繭子は玄関の脇で凍えながら、こんな会話を聞いていた。入るに入れない。
「あ、ビール切れてますねえ」
松子の声がする。
「なら安西! 買ってこーい」
完全に酔っぱらっている。中にいる人々の呆れた様子が目に浮かぶ。
「分かりました。松子さん、コンビニはどちらですか」
「あ、右に行って、突き当たった横断歩道を左に行ったら酒屋が途中にあるから、そこに」
靴音が響いてきた。そう繭子が思った時にはもう遅かった。木戸が激しい音を立て開く。背けた顔の向こうから、声が聞こえた。
「もしかして、繭子さんですか?」
眼鏡をかけた青年が、少し笑いながら玄関から顔を覗かせていた。繭子は顔をこわばらせたまま、動かなかった。
「繭子ちゃーん! 会いたかったよー!」
一番騒々しくしていた中年の男が、真っ赤な丸顔に満面の笑みを浮かべ、繭子に抱きつかんばかりに腕を広げて走り寄って来た。繭子が逃げ出そうとすると、すかさず安西という青年が男を押さえ込んだ。
「安西、邪魔すんな。俺は繭子ちゃんにお願いがあんだから」
「でも先生、繭子さん怖がってますよ」
小柄な二人はもみ合いながら、アトリエのコンクリートからリビングの板敷きに移動した。繭子はホッと息をついた。
ふと見ると、三毛は部屋の隅で悠々と寝転がっている。三毛になりたい。繭子は溜め息をついた。
「繭子、料理手伝ってね。それに、皆に挨拶してよ」
松子がにやりと笑って繭子に指図する。繭子はムッとしつつもそれに従う。
「今晩は。噂の繭子です」
その場にいた全員がどっと笑った。繭子はつんとしたままブーツを脱いでリビングに上がり、赤いモヘアの専用スリッパに足を突っ込む。
「そう、そこがいいの。そのつんとしたとこ」
「小島さん、止めなさいって」
あの中年男は小島と言うらしい。繭子は見覚えがある。それを止めているのは松子の長年の友人の永井扶実だ。灰色の着物を着た長身の女性で、染め物を生業としている。
「先生、酔うといつもああなんです。すいません」
この安西という青年は、おっとりした話し方をする。
「小島さんのお弟子さんですか」
繭子がボソリと呟く。安西はにっこりと笑う。
「去年辺りからお世話になってます。弟子と言っても、小島先生が撮影するのについて回るだけです」
繭子はその笑顔につりこまれてつい微笑んでしまった。
「あ、今シャッターチャンスだった。なあ、安西!」
それを笑って見ているのは陶芸家の木下だ。顎髭が目立つ、老人に近い年齢の人物である。
「小島先生、あなたに会うのを楽しみにしてらしたんですよ。ちょっと構ってやってください」
安西が困ったように笑う。何故だかこの子犬のような笑顔には惹き付けられてしまう。
「じゃあ、ちょっとだけ」
繭子はまた微笑んだ。安西の不思議な笑顔の力で、繭子はすっかりこの場に取り込まれてしまった。
「繭子ちゃんは、優秀な学生なんですってね」
テーブルの席に加わると、永井が繭子を労るように話しかけた。小島は繭子を眺めるのに夢中で、今は静かにしている。
「いえ、そんなことありません」
繭子は拒絶するかのように目を伏せる。松子はこれがいけないのだ、と思って繭子を見つめている。
「皆さん、松子さんの仲間なんですよね」
「そうよ。私と松子は美大時代からの付き合いだけどね。この人達はインターネットで知り合ったの。クリエイターサークルみたいな感じで」
「クリエイターって、今時大変じゃありませんか。暮らしていくのとか」
繭子のしまった、という顔を見て、永井がふふふ、と笑う。
「静岡でね、農業やってるの、旦那と。私は兼業なのよ。みんなそう。松子みたいにそれ一本で暮らしていくのは大変よ」
「そうそう。私も苦労してますよ。今は外国製の安い陶器が有り余ってますしね。今時厳しいですよ、焼き物も」
しわがれた声で、陶芸家の木下が言う。
「小島さんは写真家……」
言いかけて、繭子はしまった、と思った。爆弾に火をつけてしまった。だが小島はおとなしい。
「小島さんは、エロ写真家なのよね」
永井が笑う。小島が萎む。繭子は嫌悪感を覚えた。自分の写真を撮りたがるこの男を、不機嫌に見つめる。安西も、そんな写真を撮るのだろうか。
「扶実、止めなさいって」
松子は真剣な顔で永井のからかいを止めようとしている。
「俺はさ、皆より儲かってるけどさ、一番下賎だよな。エロだもん」
小島は落ち込んでいる。安西はだんまりと下を見ている。松子が慰めにかかる。
「小島さんの裸体写真、一流雑誌に載るじゃないですか。アイドルの水着写真とか、すごく綺麗ですよ」
「ありがとう、松子さん。俺も今の仕事は好きではあるんだよ。でも、俺本当はもっと違う写真撮りたいんだ。裸じゃない女とか、風景写真とか」
「あ、写真集……」
「あ、待って。その話は後から」
小島が手で制する。
「あの、安西さんはどんな写真を撮られるんですか」
ふと気になって、繭子が聞いた。安西は驚いたように繭子を見つめる。
「安西はね、俺の弟子なの。でもエロの写真じゃないよ。今言った違う方の。面白いの撮るよ。岩とか建物とか。俺、こいつなら第一線でやってけるんじゃないかなあって思う」
「先生、言いすぎです」
小島が代わりに喋ると、安西がはにかむ。繭子は心が少し晴れた。それに、何と無く小島が好きになってきた。小島が赤い顔でぼんやり言う。
「際どい仕事もそれはそれで楽しいけどさ、街のスナップを撮りたいなあ。人や物。あと、猫とか」
全員が三毛を見た。三毛はハッとして一同を見渡す。また皆が笑う。繭子も笑った。
「撮ってもいいですよ。三毛は美人だから」
松子が笑う。小島は機嫌を直したようだ。
「良いね。でも子猫と一緒に撮りたいな」
「え?」
繭子と松子が怪訝な顔をする。
「あれ? 分かんない? この猫妊娠してるよ」
松子と繭子は唖然とした。
「まさか……」
「本当だよ。俺猫を沢山飼ってたから分かる。あの微妙な下腹部の線は確かに赤ん坊が入ってる証拠だよ」
確かに少し膨らんでいる。しかし三毛はまた平気な顔で床に寝そべった。繭子は嘆息した。
「……三毛が大人になっちゃった!」
繭子が悲壮な悲鳴を上げると、一旦静まり帰った後、周りの人々は大笑いした。つられて笑った繭子は、不思議な気分になった。自分が人の中に取り込まれていく感覚。あの邪魔をする誰かの手が、見えない。