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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第三章 高原松子
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高原松子…十一月・3

「あの人は、私達を未だにもてあそんでいるのね」

 皿をスポンジで擦りながら松子は呟く。繭子がテーブルを拭く手を止める。

「……白いおじいさん」

「あの老人は、こんな因果な新しい生を私達に授けたのよ。ささやかな復讐に」

「……憎たらしい」

「そうね。生まれた場所に、歩んだ人生。皆私達が一番嫌なものだわ。私はかつて拒絶した家で、大嫌いな相手の娘として生まれた」

 松子の手はいつの間にか泡だらけのまま止まっている。

「私には、絹子さんがいない人生を与えた」

 繭子が辛そうに息をつく。

「それだけじゃないわ。あなたがずっと孤独だったのも、あの老人がそういうふうにしたからよ」

 繭子が松子を見た。眉をひそめている。

「まさか」

「そうよ。あなたは令嬢時代、絹子さんの言うままに沢山の人の好意を袖にしてきたわ。自ら自分を孤独にしていた。だから因果な生だと言ってるの。皮肉よ。あの老人の。あなたが以前泣いたとき、そう思ったのよ」

 松子は振り向いた。目は真剣だった。繭子は悲しげに目を伏せた。

「……そうだね。確かに私は誰かが私の邪魔をしてるんだって思ってた。でも松子さん」

 繭子が顔を上げた。

「あの無気力なおじいさんに、そこまでする意思や力はあるのかな」

「……分からない。あの老人がどんなことが出来るのか分からなかったもの。秘密だらけだった」

「やだな。怖い」

「私も怖い」

 辺りは静かだった。がっしりとした巨大なテーブルの横の石油ストーブが火を灯し続ける短い音の連続だけが、辺りに響く。松子がやっと口を開いた。

「でも、どうしようもないわ。もう私達は存在してしまってるもの。生きていくしかないのよ」

 松子が静かに言った。

「うん」

 繭子が答えた。それしか道は無いのだ。

 不意をつくように、にゃあん、と三毛が鳴く声が聞こえた。二人が振り返る。

 三毛は二人が泣き出してからずっとどこかに消えていた。気持ちの整理のついた頃を見計らったかのように、二人を見つめて、ゆっくりと松子の足元に寄って来る。松子と繭子は三毛を見ると、途端に安心した。

「ねえ、三毛」

 松子がしゃがみこんで、三毛に話し掛けた。

「あんたはあの三毛なのね。今まで一緒に暮らしていたのに、忘れてた。あんたは気付いてたでしょ。いつも私達をじっと見てた」

「そうだったね」

 繭子も近寄ってきてしゃがんだ。

「ごめんね。あんなに長い時間一緒にいたのに、ただの猫だと思ってた」

 三毛は満足そうな声で、にゃあん、と鳴いた。それを聞いた松子が大きく息をついた。

「受け入れましょう。三毛は受け入れてるわ」

 松子が三毛の顎を撫でながら言った。繭子もかすかに微笑んで頷いた。

「うん。それしかないよね」

 三毛はゴロゴロと喉を鳴らした。

 松子がいきなり立ち上がった。繭子が驚いたようにそれを見る。

「さあ、私、仕事に戻るわ。着色を控えた人形が五体、明日までに仕上げないといけないの」

 松子はふっきれたように元気だった。

「あ、私もまだ練習しないと。明後日合同練習なの」

 繭子も立ち上がった。笑っている。

「じゃあね、松子さん。しばらくお別れ。お休み」

「あ、繭子!」

 階段を登り始めていた繭子が振り返った。

「来月、ここで仲間と集まることにしてるの。参加しなさいね」

「え……」

「あんた、去年も誘ったのに部屋に篭ったきり出てこなかったでしょ。寝てたとか言って。参加しなさい」

「えー?」

 繭子の目が不安げだった。

「孤独癖も良いけど、私の仲間とは親しくしてほしいわ。ほら、陶芸家の山下さん。去年、あんたに会いたがってたのよ。すごく気に入ったって」

「どうせスケベ心でしょ」

 繭子が顔を背ける。

「あんたねえ」

 松子が呆れたように溜め息をつく。

「私達は美しいもの全てが好きなだけよ。あんたをモデルにしたいって写真家やイラストレーターが大勢私に掛けあって……あっ」

 繭子は脱兎のごとく階段を駆け上がり、たちまち部屋の中に入ってドアを閉めてしまった。

「もう」

 松子は溜め息をつくと、板敷きのダイニングを突っ切り、アトリエに降りた。古いスニーカーを足にとんとんとはめ、作業台に向かう。

 三毛もそれを追う。アトリエのストーブは石油臭い空気を吐き出し、ぼっと火をつける。それに一番近い椅子に、三毛は飛び乗る。

 松子はそれを見て、笑う。

「船にいる時と同じね。いつも私についてきて。いえ、私があんたに付きまとったりもしたわね」

 三毛は椅子のクッションの上に横たわっている。

「しかし、変わっちゃったわねえ。あんたって、そんなきつい顔だったかしら?それに、何だかふてぶてしいわよ」

 三毛のふわふわの柔らかい毛は艶のある太い毛に変わり、鋭い目はつり上がって、エジプト猫のように益々鋭くなっていた。

 それに三毛は自分のことが話されていると知りながらも、平然と欠伸をしている。

「でも三毛は三毛ね」

 三毛の目がうとうとと開いたり開いたりする。

「三毛、私達が夢だ現実だって悩んでいたころ、寂しかった?」

 松子は刷毛を取り出し、小さな缶に入った塗料を一つ一つ開ける。シンナーの臭いが広がる。

 三毛は、もちろん、と心で呟いた。今起きている状況を、三毛は今か今かと待っていたのだ。でも、もう安心だ。二人との絆を取り戻すことが出来たから。

 三毛はやっと孤独から解き放たれた。どんなに不快なものであっても、二人と三毛を繋いでいたのはあの船だ。

 緊張が解けたせいで、三毛は眠かった。瞼が重くて仕方がない。

「ねえ、三毛。本当言うと、受け入れるのは辛いわ。美枝……姉さんの事とか、千鶴のこととか。あの子のことも、まだ悲しいの。あれはある意味幸せな死だったわ。でも、親しい人の死は、どんな形であれ嬉しいものではないわね。だから私を助けてね。船にいたときみたいに」

 松子が振り向くと、三毛は寝息を立てていた。松子は笑った。

「呑気ねえ」

 刷毛を赤い塗料に浸ける。まだ木目が見えるサンタクロースを左手に持っている。さっきまで泣いた自分が作ったとは思えないくらい、明るい笑顔だ。

「……三毛を見習おう」

 松子は呟いた。

 二階から、ピアノの弾む音がこぼれ落ちてきた。


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