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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第三章 高原松子
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高原松子…十一月・2

「ねえ、本当なの」

 松子の唇は震えた。頭の中でガンガンと騒々しい音が鳴り響いていた。

「どうしたの、松子さん」

 繭子が不思議そうに言う。その表情に、どこか不安げな陰が差している。

「あんたもやっぱりそうなのね。やっぱり」

 取り乱した松子を見ながら、繭子は急激に体が冷えるのを感じた。

「あんたもあの船にいたのね。そうなのね」

 松子は顔を覆って泣き始めた。

 松子の脳裏に確かな記憶が生々しく蘇ってくる。一年前とは逆に、白い船でのあの日々が、実物として頭に押し寄せてくる。

 コンクリートの冷たい床の上に散らばった木片が、石油ストーブの灯りに照らされて黒い陰を作っていた。古い木の窓枠がガタガタと鳴る。

「どうしたの……」

「分かってるくせに。私も見たのよ、その夢」

 松子夫人が叫ぶと、繭子はふっと気が遠くなるような気がした。

 青いドレス。薔薇の香り。小さな手が踊る、白と黒のピアノの鍵盤。

 頭の中が真っ白になる。白い廊下の向こうに、一〇二七号室の扉が見える。

「じゃあ、絹子さんはいたの」

 繭子の声はかすれていた。

「絹子さんはどこにいるの」

 繭子の目からもどっと涙が溢れだした。言葉遣いがかつてのものに戻った。

「あの船はあったのね、松子さん」

「ええ。あったのよ。夢だと思ってたのに」

「私もそう思っていたわ。変に強烈な夢を見ただけだと思っていたの」

「あったのよ。白い船はあったの。私達は船で何年も長い年月を暮らし、孤独な人達と共に暮らしていた。あの子もいた。あなたのお姉さんもいた。皆止まった時のなかで暮らしていたのよ」

「そして、それは全部本当の夢になってしまったのね」

 二人はしんと黙りこんだ。三毛はじっと二人を見つめた。

 真実の蓋は開いた。

「これはどういうことなのかしら」

 繭子は静かに呟く。不思議に冷静だ。膝に顔を埋めた松子の柔らかな髪を撫でると、松子は繭子にすがりつくようにして抱きついてきた。

「分からない。どういうことなのか。第一あの船に呼ばれたその時点から、この船は何なんだろうって思い続けていたのよ。それでも答えは出なかったの。この事態だって、いつまで経っても答えなんか出るわけがないでしょう」

 松子は焦燥していた。繭子の目尻に不安な形の皺がよる。

「でもこれだけは納得がいかないわ。どうして私があの女の娘なのよ!」

 松子は叫んだ。涙がポトポト落ちる。床に。繭子の肩に。

「あなたのお母様のことね。千鶴さんって聞いたもの。やはりあの方は松子さんの旦那様の……」

「愛人よ。私が失踪したあとしばらくして、妻に仕立てたのよ」

 松子は声を荒げた。繭子は眉一つ動かさないで呟く。

「妾腹のあなたをも迎え入れて」

 松子はそれを聞いてびくりと体を震わせた。

「あの女と夫は、かつての私と今の私、両方に関わっているのよ。笑っちゃうわ。夫のこと、お父さんって呼んで、あの女のことお母さんって呼んでいたのよ」

「でもそれもまた真実だわ」

 松子を抱き締めて、繭子は言った。

「どちらも真実なのよ」

 松子は涙で繭子の肩を濡らした。

「真実なんて嫌よ」

「私だって嫌だわ」

 繭子の声が再びうるんだ。松子はハッとした。

「あんなに大好きだった絹子さん。離れ離れになってしまったのよ。嫌よ。嫌」

 繭子の声がだだをこねる子供のようになる。

「絹子さんは私のように船を出ることは無いのかしら」

 すすり泣きが混じる。繭子の息が荒くなる。

「分からない。それにあの子。船から出た途端、死んでしまった」

 涙が、瞳を渇らそうとするかのように止めどなく溢れる。少年はもう逝ってしまった。

「白い船は一体何だったのよ」

 繭子がわめく。

「分からない」

「あのおじいさんは、誰だったの?」

「分からないわ」

「正体不明のまま、私達の人生をかきまわして」

「そうね」

 松子の胸にもざわつく思いがあった。繭子は震えていた。

「絹子さんに会いたい」

 繭子の叫びをしおに、二人は黙りこんだ。そして、わっと泣き出した。二人は、お互いの苦しみが痛いほどに分かった。

 二つの人生が混線している。見えない。見い出すべきものが、見えない。松子は相反する生の無理矢理な合流に、繭子はあるべきものがなくなったことに、そして二人はあの悲しい少年が本当にいなくなってしまったという事実に混乱した。

 三毛は何故かホッとした。そっと、その場を離れた。

 

「とにかく、調べるのよ」

 夕食の席で、松子はそう言った。繭子の瞼は、かつて絹子と喧嘩をしたときのように腫れ上がっていた。

 二人は、自分達の二重の人生の裏付けを取るために情報を集めようと考えていた。

「ねえ、松子さん。大正時代の失踪者の記事なんて、どうやって見付けるの。松子さんと違って私には世界大戦が間に挟まってるんだよ」

 繭子が不平らしく言った。言葉遣いは元に戻っていた。今となってはこの方が繭子には自然なのだった。

「あなたはお嬢様なのよ。大きく取り扱われたはず。残ってる記事のどこかにあるわよ」

 松子は目玉焼きを口に放り込んだ。

「問題は私。あの頃蒸発者が異常なまでに増えていたの。新聞に載っているかしら」

 溜め息をつく。それを見て、繭子は平然と言う。

「松子さんのお父さんに聞けば。前の奥さんて、どんな人だったのって」

 嫌な笑いだ。松子が睨む。

「何よそれ。悪いけどそんなことするくらいならまどろっこしい方選ぶわ。どうせお父さん痴呆でもうろくしてるし」

 それを聞いた繭子は目を伏し勝ちにする。

「お父さんか」

「……複雑よ」

 松子は固く炊いた白米を口に掻き込んだ。

「ねえ、どうして松子さんのお母さんは松子ってつけたのかな。前の奥さんの名前でしょ」

「……ね。不思議でならない。でも何か分かる気がする」

「何、どういうこと」

「前の奥さんの名前で夫を牽制するのよ。『浮気するな』って」

 繭子が顔をしかめた。

「怖い。でも何で分かるの」

「結婚したことも不倫されたこともあるもの。分かるわ」

「未婚の癖に」

「今の人生ではね」

 食卓がしんと静まりかえった。松子は無言で煮魚の身をほぐす。

「ねえ、松子さん」

 唐突に繭子が呟いた。

「何」

「これって生まれ変わりなのかな」

「さあ……」

「あの船は天国だったのかな」

「あれが天国ですって」

 繭子はお茶をすする。

「違うよね。でも地獄ってわけでもない。それにもう一つの人生と一緒に起こる人生だなんて、変よね」

「ね」

「お坊さんにでも聞いてみる? その辺り。『私達がいたのはどこですか』」

 繭子はニヤリと笑う。しかし松子は真顔で答えた。

「止めときましょ。それは知りたくない」

「まあね」

 繭子は湯飲みの最後の一滴をぐいっと飲み干し、空の皿を持って立ち上がった。

 松子の食事も終わって、皿とテーブルクロスが運び去られた。この陶器の皿も、薔薇色と白の草木染めのクロスも、松子の長年の友人が手製のものをプレゼントしてくれたものだ。今の人生は確かに息づいている。松子はそれをないがしろにできないことをはっきり悟った。

 それなのに自分にはもう一つ人生があるのだ。松子夫人としての生や白い船にまつわる出来事に対して自分はどんな態度を取ればいいのか、松子は全く分からなかった。不愉快な生の合流に、激しい憤りを感じた。


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