高原松子…十一月・1
月の初めの日曜日に、松子と繭子はいつものように向かい合って簡単な朝食を食べていた。三毛はストーブの側で丸くなっている。
「繭子、あんたいい加減にしなさいよ」
松子がいきなり責め口調で話し出した。
「何のこと」
繭子が意味不明だ、といった顔を、少し前に突きだした。
「あんたこの間、学園祭でジャズ弾いたでしょ。私も行ったけど、素敵だった」
「ありがと。でも、あれって好きなピアニストの真似なんだよね」
「あ、そう。ところでね」
「何?」
松子は何か苦い物を噛んだような表情で、腕を組んだ。
「あれからあんたのストーカーがわんさかここを覗きに来るのよ」
「げ」
繭子が身を引いた。
「気持悪いわよ。あの窓からじっと、あんた位の若い子が私を見てるの。あんただけ見てればいいのに」
「男? 女?」
「両方。どっちも好奇心や憧れのみって感じのがほとんどなんだけど、中にはねっとりとした凄い感じのが……」
「わ、止めて」
繭子が耳を塞いだ。
「そうは行かないわよ。こっちは迷惑してるの。ねえ、あんた友達とか、彼氏とか連れて歩きなさいよ。一人で孤高の存在みたいに闊歩してるから謎めいた印象を作って、あの人たちに女神に対するような憧れを抱かせるのよ。ただでさえ美人なんだから」
「女神って……」
繭子がクスクス笑う。繭子は容姿について誉められることに、何ら抵抗を感じない。そうやって笑うばかりで一向に自分の意見に耳を貸そうとする気配の無い繭子に、松子はしかめ面で説教を続ける。
「友達くらい、作りなさい。じゃなきゃ、人生やってけないわよ。何でそうしないの。私、あんたが誰かと楽しそうにしてるとこ、見たことないわ。心配よ」
その時、繭子の箸が止まった。それを見て、松子の口が閉じた。
「だって、作れないんだもん」
ぽつんと、呟いた。終りの方で声が緩み出し、終に繭子が泣き出した。松子は慌てた。
「ごめんね、ごめんね。泣かないでよ。ね、でも無理ってことはないでしょ。私とはこんなに馴れ馴れしくしてるくせに」
わざと笑う。だけど繭子は笑わない。涙はポロポロ落ちる。
「松子さん以外の人とは、全部無理だよ。知ってるでしょ。私が施設にいたこと」
繭子の涙声を聞いて、松子はうなずいた。
繭子は若いシングルマザーの母親に放置虐待を受け、六歳のときに養護施設に保護された。すぐに今の両親に引き取られたのは、ひとえに繭子がずば抜けて美しい子供だったからだろう。松子は繭子の輝く長い睫毛を見つめる。
「私今まで、お父さんともお母さんとも馴染めなかった。可愛がってくれてるのは分かるのに、これは嘘の親だって思っちゃって」
松子は聞きながら、何か聞いたことのあるような気がしてきた。何だったろう。
「小学校でも中学校でもいじめられたの。吉岡くんが私のこと好きだって言って、そしたら女子皆から無視されて」
松子は繭子の後ろに回って背中をさする。繭子が松子に抱きついてきた。
「音高に行ったら、皆がライバルでしょ。友達なんか、今更出来なくて」
繭子の松子の腰を抱き締める力が増す。
「男の子は、私のこと、見た目しか見てない。目がやらしいもん」
「そんなこと……」
「そうだよ。世界中の皆が、私と相入れない。私は皆を求めてるのに」
繭子の肩が震える。
「何でだろう。何で私はずっと一人でいなきゃいけなかったんだろう。努力もしたのに。まるで誰かが邪魔をしてるみたい。私いつもそんな感じがしてた」
繭子を抱きながら、松子の脳裏に妙な考えが浮かんだ。だが、すぐ打ち消した。
「私はどうなの」
松子は優しく言った。繭子は紅潮した顔を上げた。
「私は繭子とうまくやってるでしょ。それでいいじゃない。ごめんね。余計なこと言って」
繭子の目が輝いた。母の乳房を求める赤ん坊のように、松子の腹部に顔を押し付ける。
「何でかな。下宿始めて、松子さんと会ってすぐに馴染めたの。自然に。何でだろう。分かんない」
涙声は落ち着いていた。松子が口を開く。
「私もね、何故だかいきなりあんたのこと好きになれたの。警戒心が強い方なんだけど」
松子は繭子の手をほどいた。それから椅子に座らせた。
「とても素敵な運命が、私達の間にあったのよ。会えて良かったわね」
テーブルを回って椅子に座りながら話し、笑う松子に対して、繭子は意を決したように叫んだ。不安にかられたせいか、大声になってしまった。
「ねえ、松子さん。一生友達でいて」
繭子の顔は必死の表情をしていた。松子はそれを見ながら優しく微笑んだ。
「もちろんよ。私だって、あなたが一番好きな友達なんだもの」
「二十歳も離れてるけど」
「歳なんて関係なし」
松子がすぐさまぴしゃりと言った。繭子が声を出して笑った。
松子は思いを巡らせた。松子と、誰とも関係を築けないこの年の離れた少女とを結び付けたものについて。
松子はあの白昼夢を思い出した。そしてふっと笑った。
あれが本当だったのなら、納得が行くけれど。
十一月が終ろうとしていた。何かと慌ただしかった。クリスマスという、一年に一度のお祭り騒ぎが一月後にやって来る。松子は木のクリスマス人形をいくつか頼まれていたし、繭子は大学のイベントサークルに頼まれてクリスマスコンサートの曲を弾くことになっていて、練習に明け暮れていた。二人が二人とも、アトリエと自室にこもり、今までに無いほど離れていた。こんなことは珍しかった。
しかし、そんな事態はすぐに破られる。
「松子さん、ココア入れようか」
繭子がとんとんと階段を降りてきて、にっこりそう言った。寂しいんだな、と悟った松子はすぐさま頷いた。松子は繭子が可愛くて仕方がない。二人はまるで親子のように親しい。
「ねえ。あの彫像いつ出来るの」
繭子がアトリエの中央に転がる木の塊を指差した。あれはもう一年前からある。松子の顔が曇った。
「出来ないの」
「え、どうして。かなり前からあるでしょ」
「去年の一月から出来ないの。何だかうまく言えないんだけど、掴んでいたと思ったものが嘘だと気付いてしまったの。そんな感じ」
「分かるかも」
繭子は溜め息をついた。
「ピアノでもあるよ。何か掴めたような気がするわけ。先生に誉められる。私も満足する。でもしばらくすると、それが下らなく思えるの」
今度は松子が溜め息をつく。
「難しいわね、芸術は」
「私のは芸術って言うのか怪しいけど」
笑い声で繭子が言う。
「そうかしら、立派な芸術よ。今の繭子のピアノは技術じゃその辺の誰にも負けないし、独創性もあるもの。一体どうしてそんなに凄くなっちゃったの。私いつも下で聴き入ってるのよ」
一瞬、繭子は黙った。それから、何かを思い、躊躇いながら一言、言った。
「一月から、頑張るようになったんだ」
カップを持ち上げようとする松子の手が止まった。一月。それは松子にとっても大切な時だった。
「ねえ松子さん。私そのころ、お嬢様になった夢を見たって言ったじゃない」
繭子の声にはある真剣さがあり、松子はそれに呑まれた。松子はあれをすっかり夢だと信じていた。夢の世界にのめり込むほど熱中しはしたが、やはり夢は夢だ。
松子は繭子が同じ時に妙な夢を見て言葉を話せなくなったときのことも、すっかり忘れていた。だから、次の言葉は衝撃だった。
「私は白い船にいた。夢には私のお姉さんが出てきた。優しくて、毅然として、私いつも頼ってた。絹子って名前で、私と対を成すような名前だった。松子さん、私、夢の中の人のことをずっと忘れられないんだよ。忘れられなくて、彼女の好きなピアノを一生懸命弾くんだ。いない人なのに、そうせずにはいられないんだ。もう一年も経つのに」
繭子は切なそうに語った。青い薄手のセーターの胸元をぎゅっと掴み、泣きそうになりながら、長い間秘めていた思いをやっと打ち明けた。松子は下を向いたまましんと動かなかった。
「この間、話したでしょ。私は相変わらず一人ぼっち。でもあの夢を見てから、あんなお姉さんがいたらなあって思い始めたんだ。そしたら寂しくないのに。あ、でも今は松子さんが友達だから、そんなに寂しくないよ」
繭子は動かない松子に笑いかけた。
「でも、本当に忘れられない。すごくリアルで、頭から離れないんだ。青いドレスの絹ずれの音が耳から離れない。お姉さんが抱いていた薔薇の香りがずっと鼻に染み付いて、取れない。松子さん、私、変かな」
繭子はうつ向いた松子の顔を覗き込むようにして尋ねた。その途端、血相を変えた松子にいきなり肩を掴まれた。