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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第三章 高原松子
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高原松子…一月・2

 朝、繭子が妙にぼんやりしているような気がしたが何故だろうか。ストーブの側の椅子にちょこんと乗った三毛は、本当に一昨日河原で拾った捨て猫だったのだろうか。

 木枯らしが建て付けの悪い窓を叩く。玄関の引き戸がガタガタと鳴る。部屋を見渡すと、自分が作った小さな動物の人形が素朴な木の棚にずらりと並んでいる。作業台の上には、確かに昨日以前から細工を続けている様々な部品が置いてある。

 夢にしては記憶が馴染みすぎている。やはりこれは現実だ。では、あれは夢だったのだ。そうでなければ残酷すぎる。

 あの哀しい死人。だが、問題はそれだけではない。

 母の名は千鶴だ。そして後妻だ。私には腹違いの姉がいる。名前は美枝だ。

 私は自分が夢の中で演じた女の、義理の娘だ。最も憎んだ相手の娘だ。

 松子は息を荒げてフラフラと歩き、アトリエの隅の木の椅子にどっかりと倒れ込んだ。ビニールのクッションが潰れてプシュウとカビた空気を吐き出す。

 夢だ。これは夢だ。いや違う、あれが夢だ。

 どちらが夢なんだろう。

 母の顔はとうに忘れた。何故なら松子が小さい頃に交通事故で死んでしまったから。

 写真もない。何故か父は家族写真を撮らなかった。姉の子供時代の写真しか松子の家には無かった。それ以外は自分や父や姉の個人写真くらいだろうか。

 その姉と共に写る父の前妻の部分は切り取られていて、見ることは出来なかった。家には彼女の思い出に対する一種異様な禁忌の空気があった。松子は彼女の名前すら知らない。

 その原因が松子夫人の突然の蒸発にあるなら?母が彼女から父を奪った体裁の悪い元愛人なら?

「そんなはずない」

 姉は松子が物心ついてすぐに他家へ嫁いでいた。それほど歳が離れていた。姉は親戚一同で集まっているときも、心なしか自分に冷たかった。

 それは私の母が姉に辛い思いをさせたから?

「姉さんは元々あんな人なのよ」

 もし、父の前妻が本当に松子という名前だったら?

「そんなこと、有り得ない」

 松子の目から涙が溢れた。

 想像で作り上げた母は美しく、優しかった。松子を撫でてくれ、父に微笑みかけていた。あの愛想の無い姉にすら親切にする聖母だった。

 夢で見た母のことは、思い出したくもない。――私はあんたの新しいお母さんよ。姉は松子夫人にその言葉を泣きながら伝えた。肩が震えていた。

「美枝、ごめんなさい」

 思わず呟いた言葉に驚いた。違う。私は姉の母親ではない。松子という名は私だけのものだ。あれは夢なのだ。

 松子は混乱して頭を抱えた。三毛がそっと足に擦り寄って来た。松子は泣きながら三毛を抱き上げた。

「三毛。私あんたと繭子が出てくる夢を見たわ。変な夢だった」

 そう言いながら、泣き笑いをした。三毛は不安げにそれを見ている。そのうち、松子の涙が治まって来た。あることに気付いたからだった。

「夢だわ。馬鹿馬鹿しい。夢の通りならどうして愛人の子の私と前妻の名前が同じなのよ」

 松子はホッと落ち着いて、にっこりと三毛を抱き締めた。三毛はにゃあんと鳴いた。目は爛々と光っている。

 

 夜、繭子が帰ってきた。玄関の古い木戸はアトリエに直接設置されている。扉がギイと開き、冷たい風を送り込んでくるのに気付くと、松子は作品の木片を作業台の上で削りながら振り返った。

「繭子、おかえりなさい」

「ただいま」

 元気がなかった。赤いプリーツスカートを揺らし、繭子は力無く微笑んだ。

「どうしたの」

 松子は妙な予感がした。だが、内心緊張しながらも気楽そうに声をかけた。繭子は大きな目をきょろきょろとさせ、何かを言おうと口を開け、止めた。

「大丈夫? 風邪かしら」

 繭子は口がきけないかのように首を振った。垂らした長い黒髪は、夢と同じく美しかった。

「ならどうして」

「……話し方が分からなくなってしまったの」

 やっと出た言葉は、いつもの繭子の話し方と違った。雰囲気やアクセントのどこかが古く、違和感がある。

 何か異変が起こっていた。まさか、繭子も同じ白昼夢を見たのだろうか。いつから?まさか、私と同じ時に?

「大丈夫よ」

 あわててそう言った。

「普通に話せてるわ。何を気にしてるの」

「本当かしら」

 そう言ってすぐ、繭子ははっと口をつぐんだ。松子も気付いた。普段の繭子なら『かしら』とは言わない。それは繭子の世代では滅びた言葉だ。

「確かに変ね。どうしたの。お嬢様になった夢でも見たの」

 わざとあの夢の通りのことを言ってみた。緊張しながら繭子の答えを待つ。

「……うん」

 いつもの言葉遣いだった。だが頷いたことそれ自体は、松子を脅えさせた。

「あんたがお嬢様。面白いわね。あんたは庶民ど真ん中でしょうが」

「うん」

 松子が慌てて更に茶化すと、繭子は少し安心したように微笑んだ。

「そうだよね。私がお嬢様だなんて」

 いつもの調子が戻った。

「あんた宝石だのブランドもののバッグだの、大好きだものね。願望がリアルな夢になったのよ」

「私って、さもしい……」

 繭子が手を顔に押し当てて泣き真似をする。

「私もなってみたいもんだわねえ、お嬢様」

 松子がわざとらしく溜め息を吐く。

「松子さんにはもう無理。なれるとしたらせいぜいマダムだよ」

 繭子がクスクス笑った。何よそれ、と松子も笑う。

 そうだ、ただの夢なんだ。

 二人はそう思い込もうとしていた。三毛は部屋の隅でじっと二人を見ていた。

 

 それから二人は何事もなかったかのように暮らし始めた。そう努力した。

 松子はその後も松子夫人の人生を夢に見て、度々苦しみながら目覚めた。そんなとき、息が乱れていないときは大抵涙を流していた。

 我がことのように悲しかった。我がことだとは認めたがらなかったが、真実味のある松子夫人の人生は、松子の人生観をも変えようとしていた。

 松子夫人の人生に出てくる母の姿は長年の松子の夢を打ち破るものだったが、それを自分の家系図の中に当てはめてみると、パズルのピースのようにぴたりとはまるのだった。松子は母を軽蔑し始めていた。

 逆に、姉が恋しくなった。年齢が離れ、母が違うために疎遠だった姉。松子夫人の姉への強い思いの影響を知らず知らずのうちに受けたらしい。思わず姉に電話をかけた。

「姉さん? 私。松子。突然電話して、びっくりした?」

 六年以上会っていない姉はいぶかしげだったが、やけになつっこく話しかける松子の話に、それほど嫌でもなさそうに相槌を打ってくれた。

 やはり姉は冷たい人ではなかったのだ。四十歳にして初めて姉と親しむようになった松子は、顔をほてらせて喜んだ。

 姉は地元で結婚し、今は父と同居している。それに、松子より少し年下の独立した息子と娘を一人ずつ持っている。それは既に知っていることだ。

 しかし松子夫人の孫だと思うと、松子夫人は夢の中の架空の人物なのだということにしているのに、嬉しくてついついにやけてしまう。

 

 松子の電話口での弾けるような話し声が、繭子の部屋に届く。耳には入らない。耳に届くのはピアノの音だけだ。繭子はピアノに没頭していた。

 恋人のように愛していた高慢で優しい姉、絹子を思い出しながら。

 彼女のことを、実在しないし、実在しなかった人間だと考えてはいる。しかしあれほどに強烈な夢の中でそんな人間を知ってしまうと、いるはずの片割れがいないような空虚感に襲われ、ただひたすら寂しくなった。

 あれは夢だ、と思うことほど悲しいものは無かった。空想の中にだけ存在する理想の姉。そういうことにして、夜の夢の中で姉に会うことを楽しんだ。そして、白昼夢の姉が愛したピアノのレッスンに、今まで以上に熱心に取り組んだ。

「ねえ、絹子さん」

 懐かしさを感じる音の波の中で繭子はそう呟き、ギクリとした。

 私は夢に取り憑かれている。

 繭子はそう脅えながらも光惚と鍵盤を叩いた。消えない、醜くも懐かしい夢が繭子の音楽を作る。

 

 松子はアトリエで、驚異的に上達して行く繭子のピアノを聴きながら、新しい人形シリーズ『三毛』の一つを作っていた。

 デフォルメされた、憂いを帯びた二足歩行の子猫三毛。小さな人形を数体友人の店に置くと、あっと言う間に完売した。

 電話で姉にそれを報告すると、押し隠したような喜びが、姉から伝わってきた。松子はそれが嬉しかった。

 しかし松子はシリーズの成功自体には喜ぶこともなく、ただ黙々と三毛を作り続けた。

 人形やオブジェの構想が湯水のように溢れてくる。全てはあの白い船の夢に由来したものだ。何故、あの夢は消えないのだろう。

 

 二人は気付かなかった。無視しようとしているあの白い船の夢が、蘇ってきたことに。

 三毛はそんな二人をいつまでも見守っていた。まるで何かを待っているかのように。

 

 三毛の体が細長く伸び、体の輪郭や薄かった三毛模様がはっきりしていくにつれて、日々は過ぎ、松子はますます繁く美枝と電話で話すようになり、人形は売れた。繭子はピアノの腕を上げて学内で評判を受けるようになってきた。

 そして再び冬が来た。あの白昼夢がやって来た季節が。


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