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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第三章 高原松子
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高原松子…一月・1

「……ね。うらやましい。私のお母さん、結構厳しいから」

「何言ってるの。妄想よ。だって私母のこと覚えてないもの」

「何それ、嘘つき」

「いいじゃない、これくらい」

 若い女が弾けるように笑っていた。聞いたことのある声だった。自分がその相手に向かって何か話している。松子はぼうっとそう意識していた。

 突然、耳に響く会話が止まった。松子は何度か連続して瞬きをした。その途端、どっと涙があふれ出した。

 あの子が死んだ。最悪の状況に戻って、そのまま死んでしまった。

 母親は泣いていた。あの子の痩せこけた体を抱いて。

 それが劣悪な場面の中で唯一の救いだった。誰も少年を救えなかった。食べ物もあげられなかったし、清潔な水も飲ませられなかった。それが与えられたのはあの船の永遠の病苦と引き替えだった。しかし、それすら彼にとっては昏睡中の夢に過ぎないのだ。悲しすぎる。

 ふと、涙の向こうに色を見た。船の白ではない。少年の病院のトタン屋根の青でもない。

 松子はハッと目を見開いた。ここはどこだろう。私は何をしていたんだろう。船から出て、あの汚れた場所を見て、それから……?

 考えて、突然恐怖が襲ってきた。記憶が、圧倒的な力で覆い被さってくる。父、母、姉、家に漂う不穏な空気。彫刻刀を振るう人生。

 記憶が、違う記憶が私の中に押し寄せてくる。白い船の記憶が、追いやられていく。

 松子は涙を拭いながら、困惑したように後ろを振り向いた。

 そこにあるのは、今自分が席についているキッチンテーブルのある板敷きの部分から一段下がった、コンクリートの広い土間だった。種々雑多な人形の作りかけが、棚や粗末な台の上にある。土間の中央には作りかけの大きな杉らしい木の塊が転がっている。

 何だ、ここは私のアトリエだ。松子はやっと気付いた。私は造形美術家で、人形作家だ。作品はまあまあの評価を得ていて、私はどうにか生活している。そうだ。何を当たり前のことを忘れたかのように、私は……。

「松子さん」

 声がしたので顔を元の方に向けた。松子は目の前に女が座っていたことをやっと思い出した。

 しかし、その相手を見た途端、震えが起こりそうになった。繭子。あの繭子が目の前に座っていた。現代の服を着て、長い髪にパーマをかけて。黒髪は相変わらず艶やかに輝いている。繭子は心配そうな顔をしている。

 いや、何が問題なのだ。彼女は私の父方の親戚筋の娘で、私の家に下宿しているのではないか。

 何故こんなに混乱するのだろう。松子は手を震わせながら、煙草に火をつけた。

 煙を吐きながら、松子は自分の周りにあるもの全てを目で追った。例えばこの若草色のテーブルクロス。これは松子のサークル仲間の染め物師が松子にプレゼントしてくれたものだ。模様と色違いであと二枚ある。

 アトリエのあの塊も、松子が新しく得た精神の彷徨の感覚を表現しようと作りかけているものだ。今までで最も手応えのある作品になるだろうと思っている。

 それにこの食卓上のチカチカする貧弱な電球。昨日変えようと繭子と相談した。

 そうだ。繭子だ。今、このリビングを兼ねた寒いダイニングキッチンのテーブルを照らす電球の光の下に確かに座っている繭子は、私と春から一緒に暮らしている。もう家族同然だ。音大生で、二階の防音室で中古のグランドピアノを弾く。

 彼女の父親が施した防音壁は不完全で、私はしょっちゅう一階のアトリエで不手際なピアノの旋律を聞いては苦笑する。

 全て知っていることばかりではないか。私は何に脅えているんだろう。松子は安心した。

 辺りを見渡す。確かに、ここはアトリエだ。あれは、夢だったのだ。目元は乾いてきた。

「松子さん、どうしたの」

 繭子の声で、松子ははっと現実に戻った。現実?

「泣いてたよ」

「何でもないわ。ただ目が急に痛くなったの」

 松子は慌ててそう言った。

「本当に大丈夫?」

「大丈夫よ。木屑が目に入ったのかもしれない」

「そう。ならいいけど。急に泣き出すからびっくりしたよ」

 繭子が子供のような無邪気な笑顔を見せた。

 違う。繭子はもっと陰のある、艶やかな女だった。

 松子がそんなことを考えながら見つめていると、繭子が突然立ち上がった。

「松子さん。私もう寝るね。今日のレッスン、結構厳しくて疲れちゃった」

「そうなの。じゃあ、お休み」

「おやすみなさい」

 繭子は笑って手を振った。松子はやっと混乱が治まって来た。

 妙な白昼夢を見た。現実が揺らぐほどの。

 不思議な夢だった。私は砂糖で出来た白い船で、孤独な生活をしていた。そこには繭子もいた。

 松子はめくるめく白昼夢のイメージを振り払い、自分も寝ようとダイニングテーブルから立ち上がった。途端に、ぎくりとした。

 部屋の隅に置かれた繭子の赤いクッションの上に子猫が座って、松子を凝視している。

「三毛……」

 松子は思わず呟き、驚いた。昨日繭子が拾ってきたばかりの捨て猫だ。名前はまだ考えている途中で、繭子と散々やりあっていた。さっきの会話もその延長なのだった。

 どうして名前が出てきたのだろう。

「三毛」

 小さく呼んでみた。

 にゃあん、と子猫は鳴き、嬉しそうに駆け寄ってきた。やはりこれは三毛なのだ。

 私が見たのは本当に夢だったのだろうか?

 松子は慄然としてこの無邪気な子猫を見つめた。

 

 夢を見た。

 松子は白い部屋の中でカリカリと木を削っていた。それは松子の娘の像だった。

「ちょっと待ってよ。私は未婚よ」

 松子は叫ぶ。その時左の指の痛みに気付いた。見ると、左手の薬指の付け根がサイズの合わない指輪に絞め上げられているかのように、ギュウギュウと細くなっていく。

「痛い」

 その時、笑い声が聞こえてくる。

 一つは夫のものだ。おとなしい松子を平気で無下にし、愛人を作った残酷な夫。

 脂ぎった顔を光らせ、にやにやと笑っている。

 もう一つは若い女のものだ。二十歳そこそこの、夫の愛人。千鶴という名前の自我の強い女で、松子と娘を何処か高いところから嘲笑している。

 松子は憎しみと怒りに満ちた感情を彼らに向ける。

 娘が泣いている。高校生の娘にはこの酷い状況が耐えられなかった。松子は懇願した。

「美枝、ごめんね。私が弱かったの。許して……」

 夢はぐるぐると松子を巡って回っていく。彼等の中の、憎悪が、怒りが、嘲りが、哀しみが渦巻く。自分の在りかが不明瞭になっていく。

「繭子さん、私も哀しいの。過去が怖いの」

 目の前に赤い着物を着た繭子が座っている。

「分かりますわ、松子さん」

 繭子が目を伏せて溜め息をつく。

 白い部屋から陰気な声が聞こえて来る。

「悲しい……悲しい……悲しい……」

 そして場面は変わり、ここは川べりのテントの集落だ。母親の手の中で息絶える、褐色の肌の少年。

 

「止めて」

 松子は声を上げて目を覚ました。そこは松子の家の寝室だった。アトリエの二階の部屋だ。銅製で典型的デザインの目覚まし時計、大輪の青い牡丹の布団、古びた畳、大きな本棚。冬の朝の乏しい光が障子紙を通して部屋に入り込む。全て馴染みの光景だ。だけど何か違和感がある。

 目覚めと共に、昨日の白昼夢の内容がはっきりと脳裏に蘇った。松子夫人としての記憶。余りに生々しい、細部が手に取るように分かる、本当にある人生のような記憶。

「あれは夢だわ」

 声に出して言ってみた。

「夢、夢、夢……」

 そう唱えていないと今までの『現実』を見失いそうだった。

 足元がもぞもぞ動いた。布団の裾から暖かい何かが出てくる。

「三毛」

 三毛はじっと松子を見つめた。

「三毛、あれは夢なのよ」

 松子はきっぱりとそう言った。三毛はにゃあんと鳴いた。何を意図した鳴き声なのか、松子には分からなかった。

 夕方、ひどく空気が冷え込んだ。コンクリートの土間は寒く、石油ストーブの力は微力だった。

 まだ意識が朦朧としていた。どちらが夢でどちらが現実なのかが分からない。それは白昼夢を見てからほぼ一日経った今も続いている。


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