子供…トタンの家
「目を覚ましたわ。ドクター!」
中年の女が慌てたように声を張り上げた。三毛は何が起こっているのかが分からなかった。体を探した。でも三毛は相変わらず霧になっていた。
でも、少年がいる。目の前の白いベッドの上に、痩せこけた少年が寝ている。辛そうに、息をついて。何だか今まで一緒にいた彼ではないように見える。
「ママ。いいよ。ドクターはもういい」
体をピクリとも動かせない重病人は、息を吐くのも辛そうにそう言った。母親らしい痩せた女が、少年に顔を寄せる。
「あんた、よく目を覚ましたね。もう、起きないかと思った」
母親が泣いた。少年は少しだけ笑って、細い手を伸ばした。
「言いたいことがあった。この二週間ずっと」
母親は少し驚いて、彼の手を握った。
「二週間って、よく分かったね。で、何?」
少年は微笑んだ。
「あのね」
「ゆっくりでいいんだよ」
「今まで」
「うん」
「今までありがとう」
「え?」
少年は目を閉じた。口許だけが動く。
「さよなら。大好きだよ」
そのまま、動かなくなった。母親は何が起きたのか分からなかったようだ。首をかしげ、何度も少年の手を叩いた。
「ねえ」
顔をピシャピシャと叩く。瞼はもう動かない。母親は焦りながら何度も叩く。
「ねえ!」
悲鳴のように、彼女の声は響きわたった。
その時、三毛は誰かが泣いていることに気付いた。松子夫人だ。
少年を、誰よりも可愛がっていた松子夫人。少年の母親と同じくらい、悲しい。松子夫人の脳裏に、少年を船から出そうと思わなければ、という考えが浮かんだ。『死んでしまえばいい』という老人の言葉を思い出した。私のせいだ。
そんなことない。三毛は松子夫人を包んだ。少年は望み通りに死ねた。母親にさよならと言えた。彼は幸せだ。
だから、悲しまないで。
三毛は自らも泣きそうになりながら松子夫人に伝えた。松子夫人は黙って、少年の冥福を祈った。
勢いのある風が三毛たちをすくった。三毛たちはトタンの建物の外に出た。簡略な医療施設だ。青いトタンが大きくくの字に曲がって建物に被さっている。
周りには、汚いどぶ川が流れている。湿気の多い、不潔な場所だ。高く浮き上がると、川の下流の方にすすけた色の粗末な建物が密集している。
少年はこんな場所で死んだのだ。でも、安らかであれば、それでいい。
また風がふく。三毛たちは建物を離れた。遠くに流される。
三毛は意識が遠くなっていった。このまま霧になって、分散してしまうのだろうか。少年のように、目をさますことなく。
三毛は密やかな不安を抱きながら、霧の塊のまま流れ、眠った。