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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…硝子戸

「繭子さん。繭子さん。繭子…」

 絹子が床にぺったりと体をつけて、涙を流していた。船から離れられないが故の後悔なのか、繭子が行ってしまったが故の悲しみなのか、それは分からない。

 老人はそんな絹子を放って、サラサラと溶けて床の中に入っていった。最後に空を見、歯を剥き出して笑った。

 三毛は彼らを見ていた。空気の中に、いくつもの粒子の群となって。

 三毛と松子夫人と少年は、霧の中で、意識を混同させながら空気を泳いだ。後悔や悲しみのない、穏やかな意識の海に彼らはいた。

 繭子だけは、絹子を未だに取り戻そうとあがいていた。その強い意識のせいで、三毛たちは寂しくなった。同じ気持ちを皆が共有した。三毛たちをつつむ空気が上に向かって動き出しても、繭子は声のない叫びを上げていた。絹子さん。

 彼らは吸い込まれるように絹子と繭子の部屋に戻っていった。今は真っ白に戻ってしまったその部屋の細部は、どこかよそよそしい。

 三毛は繭子の寝室の扉の隙間を通った。霧にならなければ出来ないことだ。泳ぐように、すうっと螺旋階段の下にやってくる。

 それから、上昇気流に乗って一気に細い階段を上がる。白いドアに突き当たり、また隙間を抜ける。

 図書室で、脳腫瘍が泣いていた。本の海に埋まって、流れる涙を拭くこともせずに佇んでいた。

 誰かが哀れみの感情を浮かべた。誰の気持なのか分からない。皆の感情なのかもしれない。

 脳腫瘍は、一番古い船の住人だ。ほとんど砂糖になってしまった、哀れな女だ。

 荒れ果てた図書室の中を、彼らはじっくりと味わうようにゆっくりと流れた。脳腫瘍の帽子を撫でて、本のページをめくりながら。

 ドアの隙間から、白い廊下に出る。ひっそりしている。廊下の脇の沢山並んだドアは、ピクリとも動かない。中には、たくさんの住人がいる。懐かしい。誰かが思った。

 ロビーの天井近くに出た。驚いたことに、沢山の人がいる。皆、きょろきょろと誰かを探している。

 少年を探しているんだ、と誰かが思った。その時突然深い悲しみにかられたのは、少年だったかもしれない。

 ロビーを低空飛行するうちに、見えたのはスチュワートだった。丸まった背中が混み合ったロビーの椅子の中に見える。彼は溜め息を吐きながらテーブルの上の鳥籠に話しかける。

「高原さんたちはどこに行ったんだろう。何だか寂しいね、メアリー」

 銀縁眼鏡の奥は、不思議に暖かい。

 三毛は彼が一緒にいないことが残念だった。彼も船から出ていけるはずだと思った。

 でもそうではないのかもしれない。彼も絹子のように、深く船に根をはっているのかもしれない。

 三毛。誰かが三毛を呼んだ。誰だろう。

 三毛。

 目の前で、あの巨大な硝子戸がギイッと音をならした。スチュワートを含むロビーの人々がざわめいた。

 硝子戸が、今まで開いたことのない硝子戸が開いていく。外に向かって、ゆっくりと。

 三毛たちはそこから、風に乗って出ていった。高い空へ。

 風は遠く流れていく。三毛も、松子夫人も流れていく。

 繭子も流れていく。絹子を呼びながら。

 少年は、短い滞在の出来事を思い返した。そして、離れることに悔いはない、と思った。三毛も、松子夫人も、そう思った。

 真っ青な海に、真っ白な砂糖細工の船が浮かんでいる。小さくなっていく。小さく小さく。

 三毛は、さようなら、と思った。さようなら、砂糖細工の船。

 三毛たちは、ふわふわと空を漂う。段々、眠くなってくる。


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