子供…ロビー・2
「マツコは私の気に入りの人間だったよ。三毛に構い始めた時はそうでも無かったが、あの子が来てから、あなたは変わったね。今の私はあなたが嫌いだ。憎んでいる」
松子夫人と老人は睨みあった。三毛は、老人の筋違いの憎しみに苛立った。こんな身勝手な人間があっていいわけがない。
「そうです。私はあの子が来てからやっと気付きました。この船は変。私は何で死にかけた娘を放ってこんなところに連れてこられたのか。どうしてその後悔を持ったまま、永遠に生き続けなければならないのか。とても虚しいと思います」
松子夫人は吐き出すように言った。老人は真顔で反論する。
「虚しいのは船の外の世界だ。私はあなたを救った。ここにいれば、何も苦しむことは起こらないだろう。何故ここを出たくなるんだ」
「同じ後悔を引きずりながら無為に生き続けることほど苦しいことはありません。私は娘の死と生とに向き合いたいんです」
松子夫人と老人は、黙りこんだ。長い間沈黙を守り、二人はお互いに初めて対立していた。絹子も繭子も少年も、戸惑ったように二人を見た。
「まあいい」
老人は独り言のように呟いた。
「いいんだよ。もうあなたたちは、いいんだ」
そしてまた、長い溜め息を吐く。松子夫人達はそんな老人の動作を見守る。
「船にはね、運賃がいるんだ」
「運賃? 聞いたことがありませんわ」
松子夫人が瞬きをした。老人はゆっくりとした動作で、腕を大きく広げた。三毛はそれを逐一見守る。
「この船は、日々大きくなっている。それには新たな砂糖がいるんだ」
「砂糖?」
「砂糖はね、君達の体から得るんだよ」
老人はちらりと姉妹を見た。繭子がゾッと体を震わせた。感情の無い瞳。
「船の住人は皆、少しずつ船に砂糖を落とす。それが増えれば増えるほど、船は大きくなり、部屋が増えるんた」
三毛は前足をペロンと舐めた。砂糖の味はしない。老人はそれを見て含み笑いをする。どこか悲しげな笑いだ。
「三毛からは砂糖がほとんど取れないんだ。ここに来た頃から。不思議だね。三毛だって他の人達のように、私に救いを求めていたのに。鋏で兄弟の耳が切り落とされただろう。残酷な子供の悪戯で、とても怖い思いをしただろう。忘れたのか」
三毛は嫌なことを思い出した。小さな子供が、初めて鋏を握ったこと。あらゆるものを切ったあと、とうとう箱の隅にいた三毛たちに鋏を向けたこと。
人間として真っ白な彼がやったことを責める気はない。ただ、母が助けに来てくれなかったことが悲しかった。母は遠くでジッと、三毛の兄弟の柔らかな薄い耳がチョキンと切られるのを見ていた。
叫び声が耳につく。お母さん、助けに来て。でも、母は一度も助けてくれなかった。鋏は次に三毛の耳に向かう。
「三毛が可哀想です。何てことを言うの」
松子夫人が力なくうなだれた三毛を少年から受け取り、抱き締めた。三毛の目はうるんでいた。
「三毛は船にはふさわしくない猫だったね。他の住人のように沈みこんだりすることなんかなかった。三毛。三毛はもう帰っていいんだよ。船の外に、行きなさい」
老人は微笑んだ。三毛は何が起こったのか分からなかった。出ていい? どうやって。それに、どうしていきなり?
「マツコもだ。その子も。マユコも出ていっていい。さあ、帰りなさい」
松子夫人達は顔を見合わせ、呆然としている。何が起こっているのだろう。ただ一人、名前を呼ばれなかった絹子が青ざめて老人を見つめている。松子夫人がそっと口を出した。
「おじいさん……?」
「いいから、早く、帰れ!」
突然、低く鋭い声がこだました。老人の形相は物語の醜い小人のように歪んだ。松子夫人は、驚きのあまりに涙が目にたまった。繭子がしくしくと泣き始めた。少年は松子夫人の体から離れず、怒声にびくりと体を震わせた。
「お前達は私の船を変えようとしている。穏やかな私の砂糖の船。砂糖も出さずにのうのうと、そのガキを使って、船を、船を、船を――」
「おじいさん」
三毛は松子夫人の体の色が薄くなっていることに気付いた。
「お前らは最近ガキにかまけて、砂糖を出さなくなった。砂糖を出さないやつを、私がここに留め置くと思うか? いや、そんなわけがない」
老人は次に少年を指差した。少年の体も薄くなっていく。三毛はキョロキョロと辺りを見渡した。絹子が必死に繭子を捕まえている。繭子の体が霧のように膨張している。
「クソガキめ。お前は私の船を初めから罵倒した。お前のために部屋を用意してやったのに、欲しくて堪らない食べ物も与えたのに、お前は――。お前など、死んでしまえばいい」
老人の真っ赤な顔に浮かんだ笑顔に、三毛はゾッとした。少年は、何かを叫ぼうとしたが、突然フッと消えた。霧になりかけている松子夫人が悲鳴を上げた。
「あの子を殺したの? どうしたのよ!」
「マツコ、マツコ。お前は私の親友だと思っていたのに。孤独を共有する、仲間だと――裏切り者」
「おじいさん!」
「でもね、君達姉妹は違うんだ。あの子がいたら言うだろうね。『キヌコは体がほとんど砂糖になっている』事実その通りだ。私はキヌコを手放さないよ。キヌコ、私の新しい友人になってくれるね。マユコは残念ながら、砂糖を出してくれないので、サヨナラだ」
「嫌、絹子さん! 一緒に行きましょうよ」
繭子は薄くなった手を伸ばして絹子に触れようとするが、体がうまく動かない。
絹子は涙を目に貯めて、繭子を必死に抱き寄せようとする。
「私は――行けないわ。外の世界がまだ怖い。悲しみや後悔が止まらない。繭子さん、ここに残って。お願い」
絹子は繭子を留めようとしていた。しかし、繭子の体は消えていく。
「どうして……。絹子さん。こんなところにいること無いじゃない」
繭子が霧の涙を落とす。白い床の上で、それは幻のように消えた。絹子はだだっこのようにじだんだを踏む。
「嫌、行けないわ。私、怖い」
「さあ、マユコ。消えなさい」
老人がフッと息を吹いた。繭子はかき消されるようにして消えた。
三毛と松子夫人はオロオロと自らの体が霧になっていくのを眺めていた。老人は醜い怒りの形相を止めて、スウッと穏やかな微笑みを浮かべた。
「あなたたちは、私が一番好きな人間だったよ。控え目で、おとなしくて。
私は癒された。あなたたちがいたから。でも」
老人はニイッと笑う。
「さようなら。素敵な人生が、あなたたちを待っているよ」
三毛は消えた。松子夫人も消えた。老人と絹子だけがそこに残った。




