子供…ロビー・1
「マユコとキヌコ。君達の船の底は静かだね。蓋を開けなければ何も出てこない。とても居心地がいい」
老人はすっかり皮膚が衰えてしまった顔を白いタキシードの中に埋めて、よく通る声で話した。服ばかりがきっちりと形を留めていて、それが結婚式の衣装であり、それをこの衰えた老人が着ているということが、松子夫人達に奇妙な印象を与えた。かつては気にも留めなかったことなのに。
絹子と繭子は体を寄せあって、老人の視線から逃れようとした。曇って、灰色に鈍く光り、どこか異様な感じのする目つきだ。
三毛は少年に抱かれ、少年は泣きそうになりながら松子夫人にしがみついた。松子夫人は目を泳がせて、彼らと老人とを交互に見た。
「どうしたんです。私達の後についてきたんですか」
松子夫人は老人が彼女に与えた仕打を一瞬忘れていた。ただ単純に老人が何故ここにいるのか、と思うだけだった。
「いつのまに――」
「マツコ。やっぱり子供はここにはふさわしくないね。人間も猫も、育つ途中にあるものがこの船にいると、皆どこか落ち着きが無くなる」
老人は溜め息をついた。深い深い、どこから生じているか分からない程の長い吐息。憂鬱そうに目を閉じ、色の薄い睫毛を震わせる。
松子夫人はわけが分からずぽかんとして立っていた。少年は、そんな彼女に何かを囁いた。お化け屋敷の中の子供のように、早く逃げようと言っているように見えた。三毛はそれを聞いて驚いた。
「真っ白だよ。砂糖だ」
絹子の呟きに、松子夫人が振り返った。絹子は少年の口許を憑かれたように見つめながら、ぶつぶつと言葉を連ねた。少年が勢いづいて松子夫人に高い声を張り上げた。
「あいつは船の床から生えてる。足が無い。頭が天井に繋がってる」
「え」
松子夫人と姉妹の目が老人に向かった。三毛は少年の言葉を脅えながら聞いた。次第にそれは形を成して見えてきた。
「俺には見える。船の連中には身体中から白い根が生えて、船からは絡めとるように長い根が伸びていた。あいつだけは違う。あいつは、船の柱なんだ。砂糖の柱なんだ。どこもかも真っ白な、船そのものなんだ」
「何を言ってるの」
松子夫人は少年の肩を掴んだ。少年は目を真っ赤にして、松子夫人の体を抱き締めて叫んだ。
「信じて。本当だ」
絹子の無表情な声が後に続く。繭子は驚いたように絹子を見つめている。
「本当かもしれないね。私にはそんなもの見えないけれど」
老人が乾いた声で笑った。かつての朗らかさは無い。松子夫人は初めて疑い深い目で老人を見た。
「おじいさん。どうやって降りてきたんですか。鍵が無ければ、入ってはこられないはずなのに」
「ああ」
老人は初めて愉快そうに笑った。三毛と少年は老人を睨んだ。
「眠るんだ」
「眠る?」
「真っ白なベッドで、真っ白な夢を見る。それは船の底の夢だ。いろんな人々の思い出を見る。心地のよい、寂しい思い出を。私は船の底にすっかり溶けこんで、壁になったり床になったり、今のように体を作り出したり出来る。楽しいよ」
松子夫人は後退りをした。老人はニコニコと微笑んでいる。
「私はね、マツコ、あなたを呼んだんだよ。キヌコにマユコ、三毛やその子。船にあなたたちを呼んだのは私だ」
三毛は自分が体の毛を膨らませていることに気付かなかった。この人が、自分達を呼んだ。やっぱりそうか。三毛はやっとふに落ちた。三毛は船そのものに脅えていたのだ。
松子夫人は瞼を何度もこすった。信じられないものを見ているかのように。
「おじいさん、あなたは、何なのですか」
切れぎれに喋る。息が続かない。老人は白い歯を剥き出しにして、にいっと笑った。
「マツコ。私は船の持ち主だ。この船を作ったのは私なんだよ」
松子夫人は頭を抱えた。絹子と繭子は手を繋ぎ、老人から目をそらしていた。
三毛はフウッと老人を威嚇した。老人は悲しそうに三毛を見返した。
「三毛、私は三毛を可愛がっていたよ。嫌われる筋合いはない」
それでも三毛は止めなかった。この人のせいで、沢山の人々が船に閉じ込められたのだ。もちろん、三毛も。
「船の外に出たいか。出たければ出ていいんだよ。そうだろう、マツコ」
松子夫人は顔を上げた。疑問府が頭に満ちている。
「出ていい? どうやって。私はここから出たいと思っても、出ることが出来ないというのに」
「ふん」
老人は鼻を鳴らし、黙りこくった。何も言わないし、動きもしない。松子夫人達は目で老人を警戒していた。沈黙がその場を支配する。
「この船は私の船だ」
老人は穏やかに沈黙を破った。三毛は少年の腕の中でギラギラと目を光らせている。
「ある日、突然手に入れた。これがどういうものなのか、未だによく分からない。ただ、私にとっては居心地がいいし、いつでも、どこにでも行ける。素晴らしい船だ」
溜め息をつく。長く、長く。
「寂しかった。孤独で、いつもむなしかった。この船に初めて乗ったときも。マツコ、私にもかつては暮らしがあったんだよ。船に乗り、素晴らしい仲間と家族に囲まれた、当たり前の生活が。――私は船乗りだった」
少年が三毛を抱き締めた。老人を取り囲んだ異様な雰囲気は、次第次第に彼等の元に手を伸ばし始めた。老人は白い椅子に体全体を押し付けている。
「ある日――何百年もの昔のある日。私は一人で船に乗った。外国の船だった。私は言葉が達者だから、通訳として呼ばれたんだ。故郷には母も妻もいたし、息子が二人いた。友人もいたし、小さくとも豊かな集落だった。そこを離れることはとても辛かった。私の小さなふるさと。仲間たち。長い長い旅。暑い船、眠る場所もほとんど無い狭い船で、私は沢山の人間と関わりあった。いろんな人間がいて中々楽しかった。でも、故郷を忘れることは無かったよ。どんなに楽しくても、心がしっくりくるのはあの優しい故郷だけ。思い出すよ。小さな息子が私に言ったこと。
「『早く帰ってきて、いろんな話を聞かせてね。待ってるよ。毎日待ってる』
「妻が言った。
「『帰ったら、あなたの好きな山羊乳のスープを作ってあげる』
「妻はとても美しかった。いつも輝いていた。母は顔をしわくちゃにして私を抱き締めた。
「『私より先に逝かないで。船旅では気を付けなさいね』
「――帰ったよ。一年経って、私は故郷に帰った。だけど、何があったと思う?」
老人は三毛を見、松子夫人を見た。二人は歌うように話し続ける老人を見返した。
「廃墟だ。家は燃え崩れていたし、木造の町並みは壊れ、崩壊していた。教会の十字架が足元に落ちていた。……誰とも分からない、ひからびた死体が転がっていた。首と体が離れていた。何があったのか……。分からない。未だに。海賊に襲われたのかもしれないし、戦争に巻き込まれたのかもしれない。一つだけは分かる。私は一人ぼっちになったんだ。私の小さな一族は、全滅してしまった。私は誰にも通じない言語を知ってるよ。それは我々の言葉だ。これを話せるのは、その時から私だけになったんだ」
松子夫人はしんと静まりかえったロビーを見渡した。老人が作った、老人の船。寂しげな白い船。
「あちこちを放浪した。私は言葉を話せるし、船乗りとしてもやっていけた。生活には困らなかった。だけど」
老人の顔が赤くなった。目がつり上がり、口をくいしばって――。
「寂しい。寂しい寂しい寂しい寂しい寂しい!」
三毛はびくっと体を震わせた。老人が恐ろしい形相で松子夫人を見上げた。
「寂しいんだ。気が狂うほどに。私の言葉が通用する私の仲間はいない。もう私の故郷は無い。孤独だ。虚しい。あるとき、私は船を海へとこぎだした。死にたかった。寂しい、寂しい。それだけを呟いて。どこまでもこいで、行けるところまでこぎ続けるんだ。岸辺はもう見えなくなってきたし、もう自力では戻れない。いつかは死ぬ。私はホッとした気分だった。夜になってしまい、何も見えなくなると、夜空に体を吸い取ってもらえたようで気分がよかった。私はいつの間にか眠っていた。でも、目が覚めると」
老人は穏やかに続けた。
「小舟は白い大きな船に変わっていた。私は寝惚けているんだと思っていた。だけど、何日も何日もそこにいる内に、そこが現実だとやっと分かった。壁を舐めたんだ。甘い砂糖の味がした。でも、やっぱり寂しいんだ。寂しくて、辛い。私は何度も狂ったように叫んだ。誰か来てくれ。寂しい。もう嫌だ」
老人はフッと笑った。
「そしたら、見えたんだ。酷く醜い女が、狭い部屋の中で家族から蹴られ、殴られ、殺されそうになっている場面が。私は何故か懐かしい気がした。仲間だ。そう思った。唇が勝手に動いた。
「『こっちにおいで』
「図書室の脳腫瘍は、船の舳に現れると、ポカンと私を見たよ」
三毛は愕然とした。老人は楽しそうに笑っている。こんな奇妙な力を得ることがありうるのだろうか。老人はもう既に人間ではない。船の化け物だ。
松子夫人が老人に一歩近付いた。怒りがその目に宿っていた。
「私達のことも呼んだんですか。そうやって、気分次第に」
老人は微笑んだ。
「気分次第。確かにね。私は私の好きな人間しか呼ばなかった。教養があり、知的で、優雅な人間。そして、混乱した、寂しげな人間。寂しさは私の愛するものだった。
マツコ、あなたもそうだろう。夫に捨てられ、愛人に虐げられ、娘に拒絶されたあなたは、とても寂しげな人間に見えたよ」
「止めて」