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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…船の底・9

「分からなかったの。私の中で城内さんに関してもやもやとしたものが積み重なっていき、それとは逆に城内さんに対する気持ちは強くなっていく。繭子さんが憎いような、不自然な感情が生まれてくる。混乱していたの。何か確信があってやったわけではないわ。繭子さんをここに追いやった言葉だって、はっきりとした目的があって言った訳ではなかったのよ」

 息もきれぎれに話す絹子の隣で、繭子が静かに泣いている。二人のこの場面は、二人にとって酷い思い出だった。

「それなら繭子さんに言えば良かったのよ」

 松子夫人が言った。絹子は首を振る。

「私は混乱してはいけないの。混乱したところを繭子さんに見せてはいけないのよ。繭子さんは私に頼りきりだもの」

「あなたがそうさせたのでしょう? あなたが弱いから、あなたは繭子さんを道連れにしたのでしょう?」

 松子夫人と絹子が顔を見合わせた。冷たい壁が、間に立っている。

 少年が溜め息をついて三毛を抱いた。大きく映し出される絹子が、一人の部屋で蹲っている。

 

『――繭子さん?』

 絹子はベッドの上に膝を揃えて座り、顔を上げて隣のベッドを見た。そこには誰もいない。

『――城内さん』

 絹子は何かを待つようにじっとしていたが、「何か」が来ることは無かった。

 絹子はぼんやりと部屋を見渡した。そして静かに呟いた。

『もう三日よ。繭子さん。出ていらっしゃいよ。私が謝るから』

 返事はない。絹子はもう一度部屋を見渡した。立ち上がり、あちこちを探り始めた。でも、どこにも誰もいない。

『繭子さん……』

 絹子がグスンと鼻を鳴らす。

『繭子さん』

 嗚咽を漏らす。

『繭子さん、私一人ぼっちだわ』

 その言葉が終わって暫くすると、絹子の体は水で拭い取られるようにして一瞬で消えた。華やかな部屋は、初めから無人だったかのように冷たく取り澄ましていた。

 

「あなたは自分の孤独に繭子さんを引きずり込んだのよ。子供の時から抱えていたあなただけの孤立感を、二人のものにしようとしたの。大人になってもよ。あなたは繭子さんから他人を引き離そうとやっきになって、その人たちにことごとく『不合格』の烙印を押した。あなた自身は何者でもない、ただの寂しい人間なのに。あなたと繭子さんは二人だけの世界に閉じ籠り、現れたのが空想の中の城内さん。城内さんは二人の理想を満たしていたものね。二人に足りないものを、城内さんを使って補っていたのよ。ねえ、最後に現れた城内さんが焦って怒鳴った時、あなたは実在の城内さんを不合格にしたわよね。あなた、軽蔑した目をしてた。余裕を保てない男はあなたにふさわしくないものね」

 絹子は唇を噛み、惨めに黙りこくっていた。反論など出来なかった。

「多分、気付いていたんだわ」

 ポツンと呟いた。

「城内さんはいない人間だって分かってたのよ。だから思い通りに操れたの。私の中の城内さんは、繭子さんに刺されたとき、確かに死んでしまったの。私が殺したのよ。城内さんが自分だと、どこかで気付いてしまったから」

 繭子はそっと絹子を盗み見たが、絹子は傷を撫でているような痛々しい表情で床を見つめていた。

「だから繭子さんの前に、城内さんは現れなくなったの。繭子さんの中の城内さんは生きて、存在していたけど」

 絹子と繭子は微妙な距離を作って離れていたが、二人とも同じ目をしていた。寂しげな、濡れた長い睫に縁取られた目。

 しかし、二人の中にある感情は別のものだ。繭子はただ動揺しているが、絹子は違う。

「でも、私の中の城内さんも、もう消えてしまったわね。分かってしまったもの」

 繭子が下を向いたまま尋ねた。

「そうね」

 絹子が瞬きをしながら答えた。

「良かったわ。すっきりしたもの」

「そう」

「……ねえ、私は絹子さんのお人形だった?」

 繭子はそっと尋ねた。

「違うわ」

 絹子が言下に否定した。

「じゃあ何なの?」

 繭子は顔を上げて真っ直ぐに絹子を見つめた。絹子は慌てたように目をそらし、それからもう一度繭子を見て、言った。

「あなたは私の恋人だった。変な意味じゃないわ。なくてはならない半身だった」

「本当?」

「ええ。今まで、ご免なさい」

「なら、いいの。私も絹子さんは、百年前から恋人だったもの。城内さんは絹子さんそのものだったわ」

 それから絹子がおびえたようにそっと繭子に手を伸ばした。繭子は微笑んで手を取った。二人は静かに抱き合った。

 松子夫人はぼんやりとこの風変わりな姉妹を見つめていた。正しいことをしているのか分からないまま、絹子を傷付け、繭子を泣かせたが、それは正しかったのか、今でも分からない。

 少年と三毛が松子夫人に擦り寄ったが、彼女は二人の頭を優しく撫でるだけだった。

「二人には、もう一つ見てもらいたいものがあるの」

 松子夫人はやっと離れた姉妹の前に、細い硝子瓶を取り出して見せた。絹子が不安げにそれを見た。

「私達の、薔薇のエキスの瓶……」

「船の底のものよ。別の物が入っているわ」

「それは何……?」

 繭子が恐ろしげに松子夫人に問う。

「大丈夫。怖くないわ」

 微笑んだ松子夫人が硝子の蓋を抜くと、キラキラとした光が姉妹の足元に落ちた。光は次第に形を作り、ミニチュアのドールハウスのようなものになる。

「優しい思い出よ」

 

『絹子さん……』

 幼い繭子がピアノのある広間の中で、絹子に寄りかかっていた。

『どうしたの、繭子さん』

 絹子が優しく繭子の髪を撫でた。

『私は一人ぼっちよ。絹子さんがいないと一人ぼっちなの』

『……一人ぼっち?』

 それはもっと小さな頃の絹子が言っていた言葉だった。

『そうよ。お父様も新しいお母様も優しいけど、とても寂しい気がするの』

 

 絹子が痛みに耐えるように繭子に触れた。繭子は絹子に擦り寄った。これは絹子が繭子を自分の孤独の中に取り込んだ結果だった。

 

『……そう。私もそんな気がするときがあるわ』

『絹子さんも?』

『ええ。でも、寂しいのなんて音楽を聞けばすぐに消えるわ。これを聞いて。新しく覚えたのよ』

 絹子がピアノの蓋を開けた。ゴトンと重たげに蓋は倒れた。絹子は皮張りの椅子に座り、息を吸う。

『下手くそだけど、笑わないでね』

 

「あ……」

 繭子が声を漏らした。

 

 絹子は「月の光」を弾いていた。リズムが崩れがちで、何度もつまづきがちな、下手な音楽。絹子は真剣な顔で、懸命に、失敗しても何度もやり直して、繭子に優しい音楽を贈っていた。繭子は少し悲しげに、少し嬉しそうに笑って、絹子からの贈り物を受け取っていた。

「これをまた聞けるなんて」

 繭子は目に涙を浮かべていた。絹子は不思議そうに小さな自分を見つめていた。

「この曲を聞いて思い付いたの。城内さんがあなたたち二人ともを愛していたのは……」

 松子夫人はそれだけ言って黙った。繭子がやっと朗らかに笑った。そして、絹子の手を取った。

「ねえ、絹子さん。もう私達、もう船にいる必要は無いわね」

 絹子はびくんと繭子を見た。『月の光』はまだ流れ続けている。

「どうして……」

「だって、もう悲しくないもの。悲しくなくなれば、こんなところ、いても意味が無いわ。それにこの時、絹子さん言ったじゃない」

 

 小さな絹子がピアノを弾き終えると、繭子が顔を赤らめてパチパチと拍手をした。

『私、この曲大好きだわ』

 絹子は戸惑ったように笑った。

『ねえ、繭子さん』

『何?』

『一人ぼっちの気分になったらね、こうして私を頼ってね。私達は二人とも弱いけど、一緒に頑張れば、一人ぼっちの気分を止められると思うの』

 繭子は頷いて、笑った。

『ええ。絹子さんも、私を頼って』

『――外の世界に出なきゃいけないわ。私達、強くならなきゃ』

 絹子はそう言いながら、何度も頷いた。

「外の世界に出る頃なのよ、絹子さん」

 

 繭子は絹子の手を取った。

「こんなに遅くなって――、百年も経ってしまったけど、私達は船から降りるときなの。ねえ、そうじゃない?」

「私、私は――」

 絹子が言いよどむ。松子夫人が身を乗り出す。

「そう。この船は変よ。ここにいれば、私達はどんどん悪くなる。どうやって出るのかは分からないわ。でも、どうにかして方法を探して、出なければ。ねえ、私たちで協力して」

 少年と三毛が三人に近寄る。少年が不安げに松子夫人の手を握る。三毛が少年をじっと見つめる。何かがおかしい。

「私は――」

「そういうわけにはいかないよ。彼女は船を降りられない」

 しわがれた声が響きわたった。そこにいた者は慌てて声のする方を振り返った。色の動きの止まった鮮やかな壁がみるみるうちに色褪せていく。ロビーが真っ白になっていく。

 少年が脅えていた。三毛もこの感覚に覚えがあった。絹子は驚いたように後ろを振り返った。松子夫人が呟いた。

「おじいさん」

 ロビーの奥の席に、白い老人が座っていた。


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