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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…船の底・8

「知らないはずがないわ。船の底に降りてから、あなたずっと変だった」

「私は……」

「音楽室で、あなたは城内さんがピアノの中にいると言ったわ。でも私は何にも見えなかった。松子さんが来たときも、三毛が私を見て怖がっているばかりでわけが分からなかった」

 繭子の目の光が揺らめいている。

「どういうこと。あなたは何をやっていたの。船の外で、船の中で、あなたは城内さんを使って私に何をしていたの」

 絹子は許しを乞うように繭子を見たが、繭子の態度は冷たかった。

「……本当に分からないの。私はいつだって城内さんに会えるのに、繭子さんはそうじゃない。怖かったわ。私は音楽室で城内さんに会う度に悲しい気持ちになって、一方では混乱していたの。悲しいのは繭子さんを裏切っているって思っていたから。混乱していたのは、城内さんのことがますます分からなくなったから。だから一人で船の底に降りたの。そしたら」

 絹子が顔を上げた。涙で顔が汚れていた。彼女は絹子であって絹子で無くなっていた。

「城内さんがいないの。どこにも。あなたと私しかいないの」

「あなたやっぱり船の底に来ていたのね」

 松子夫人が絹子を見下ろした。松子夫人は絹子にどういう態度を取るべきかで迷っているようだった。

「ええ、来たわ。だから、あなたがやって来た時はもうおしまいだと思ったの。…本当におしまいだわ。全てが終わった」

 絹子は顔を覆った。松子夫人は意を決したように絹子をそっと突き放した。

「本当に何も気付かなかった? 本当に?」

「ええ」

 絹子が脅えたように頷いた。

「体の傷には?」

 松子夫人は厳しい目をしていた。絹子はぽかんとそれを見つめていたが、やがてゆっくりとした仕草で再び泣き始めた。繭子はわけが分からないといった様子で交互に顔を向ける。

「体に傷があるでしょう」

「ええ」

「いつから」

「繭子さんが……、城内さんを刺した時から」

 繭子があ、と声を上げて絹子を見た。その目は冷たく光っている。

「気付かないはずがない」

 松子夫人が言い放った。

「あなたはいつも分かっていて、気付かないふりをしているのよ。」

 

『殺さなきゃあね』

 絹子が笑った。繭子が息を飲んだ。

『殺す? どうして』

『城内さんたら、あなたを裏切ろうとしたのよ。だから、殺すの。私許せないわ。あなたを騙そうとするなんて。今まで城内さんを一番信頼していたのは繭子さんなのに。

 死に値するわ。繭子さん、そう思わない?』

 絹子はにっこりと微笑んだ。繭子は次第に瞼を落としながら、ぼうっと絹子の呪文のような言葉を聞いていた。それからゆっくりと頷いた。

『そうね、殺さなきゃあね』

 繭子は操り人形のように、絹子の言う通りに動いた。小さなナイフを帯の間に刺し込み、城内を呼び出す手紙を書いて絹子に渡した。

 

「繭子さんは、いつでも絹子さんの思い通りに動くの。何故かしら」

 松子夫人が繭子ではなく絹子を振り返った。

「分からないわ」

 松子夫人は分かっている。三毛も分かっている。

「どうして殺さなきゃいけないと言ったの」

「……それは、私達を二人ともたぶらかしている城内さんが憎らしくて」

 絹子の顔色は悪い。

「それだけ?」

「ええ。わけが分からなくなったの。怒りが止まらなくて」

「あなた、本当は城内という人物が何者なのか気付き始めたから、それを清算しようとしたんじゃないの。それは自分自身が城内さんだという事実に到達する前だったのかしら。それとも到達していたのかしら」

 絹子が虚ろな目つきで繭子を見る。繭子はただかたくなにその視線を避けようとしている。

 

『繭子……』

 暗闇の中で女の声が苦しげにうめいていた。ハアハアと息を切らしたもう一人の女が、泣き声を漏らした。

 鼻をすすり、着物に付いた泥を払い、声を漏らしながら走り去ろうとする。

『繭子』

 取り残されようとする女が呼ぶと、繭子は再び泣いた。

『ごめんなさい』

 それだけ呟くと、繭子は建物の向こうへと走っていった。

 しばらくの間、沈黙が夜のしじまに落ちていた。倒れていた人影は時が経つ前にゆっくりと起き上がった。

『痛い……』

 絹子が呟くと、辺りに立ち込めていた静けさは破れた。少し息は荒いが、動きは滑らかに素早く立ち上がり、歩き始めた。

 

「傷を見せて」

 繭子が絹子に言った。目が動揺している。絹子は首を振り、自らのたもとに手を入れると、白く長いものを取り出した。

「包帯よ。血が付いてるでしょう」

「血の染みが小さいわ」

「皮膚が小さく裂けているだけなの」

「あなた、私にこの傷のことを言わなかった」

 繭子が絹子を睨んだ。

「やっぱり分かっていたんだわ」

「違うわ」

 

『絹子さん、どこに行ってたの。私……』

 姉妹の部屋の中でぐるぐると歩き回っていた繭子は、慌ててドアを開いた。ドアの前には表情の固い絹子がいた。

『殺してしまったわ。城内さんを、殺してしまった』

 繭子が酷く焦燥して絹子に抱きつき、離れ、肩を揺さぶる。絹子はされるがままになっていた。面倒臭そうに、虚ろな表情のまま、体が揺れる。

 しかし突然繭子の手を振り払うと、樫の書きもの机の椅子に座り、絹子はぼんやりとフランス窓の外を見た。繭子はまた絹子を追い掛けて、言葉を続ける。

『私はもうおしまいよ。城内さんを自ら殺してしまったんだもの。もうすがるところなんてないわ。お父様も、お義母様も、私達のことを諦めているんだもの。ねえ、絹子さん』

 その時、絹子がふくろうのように首だけをクルリと繭子に向けた。表情は、無い。

『繭子さんったら、どうして城内さんを殺してしまったの』

『え……』

 絹子が不思議そうに繭子を見ていた。目を丸くし、眉を上げ、口紅を塗った唇を小さく開いて、信じがたいものを見るかのような目を鈍く光らせていた。それは残酷な表情だった。

 繭子はそんな絹子の言葉と態度が体に染み渡るにつれて、次第に青ざめ、震え、目が泳がせ始めた。口が何かを言おうとしては閉じる。何度も何度も唇が震える。

『――何を言ってるの』

 それが繭子のやっとの言葉だった。絹子は気味悪そうに身を引く。汚らわしいものであるかのように、瞼を伏せて、横目に繭子を見る。

『あなた、本当に人殺しをしたの? 信じられないわ。あんな冗談を間に受けて』

『――冗談?』

『冗談に決まっているでしょう。信じられないわ。人殺しよ。あなた、取り返しのつかないことをしたのよ』

『取り返しのつかない……』

『そうよ。……ちょっと、近寄らないで』

 繭子が絹子に一歩歩み寄ろうとして、止まった。もはや表情を消した繭子がそこにいた。絹子はさっと椅子から立ち上がり、軽蔑しきった表情で繭子を眺めていた。

『……絹子さん、私が嫌いになったの』

 繭子がぽつりと呟いた。

『何ですって』

『絹子さんは私が嫌になったんだわ。だからそんなことを言うんだわ』

 うつ向いた繭子の目からポタポタと床に涙が落ちた。絹子はそれを見て、一瞬動揺した。しかし、すぐに冷たくとりすました顔に戻った。

『……嫌いだわ。気味が悪い』

 繭子は泣きながら、絹子にすがるように手を伸ばした。絹子はそれから身を引いた。そして少し笑った。嘲りの笑いだった。繭子はそれを見て、涙を止めた。うるんだ目を呆然と絹子に向け、そして叫んだ。

『絹子さん、私を見捨てないで』

 絹子はそれに向けて何かを言おうとしたが、一つ瞬きをした瞬間、驚いたように小さく口を開いた。繭子が消えていた。繭子はもう船の人となっていた。


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