子供…船の底・7
繭子が目をうるませていた。松子夫人は無表情だ。三毛は嫌な予感がした。
絹子だけが分かっているのだ。いつだって知っている。少年が見つめる絹子の小柄な体とすらりと伸びた首筋は、松子夫人の彫刻のように動かない。
『城内さんが来ないわ』
繭子が人形を抱いて、樫の机に向かって数字を並べている絹子の隣に立った。絹子はさらさらとペンを滑らせて、問題を解いて顔を上げた。
『来ないわね』
『約束したのに……』
絹子はまた手を動かし始めた。
『約束したのに……』
絹子がちらりと繭子の顔を見た。繭子の表情が固くこわばっている。
ベッドの横に二つ並んだフランス窓の外は、庭の紅葉の橙に染まっている。
「おかしいわ。城内さんは夏のうちにまたすぐにやって来たはずなのに」
繭子が呟いた。三毛は体が寒くなってくるのを感じた。絹子はやはり微動だにしない。
『初めて出来たお友達なのに……。絹子さんが許してくれた、初めての』
繭子の体がぐらぐら揺れる。泣きそうに顔を歪める。
『そんなに会いたいの』
絹子が繭子の頭を撫でた。繭子が頷く。
『大丈夫、会えるわ。覚えてないの。あの後すぐ、会いに来てくれたじゃない』
繭子が笑った。
『そうだったわね。この間……』
繭子の顔から血の気が引いていく。絹子が顔色も変えずに手を伸ばして繭子を抱き締める。繭子がゆっくりとその体に寄りかかる。絹子がにっこり笑って口を開いた。
『城内さん』
『呼んだ?』
繭子が顔を上げて笑った。
三毛は凍りついた。悲鳴がこだましている。壁の中ではない、目の前の絹子の体が痙攣したように震えている。常人の物とは思えない叫び声は、絹子のものだ。
「絹子さん、絹子さん」
松子夫人が絹子を押さえ付けようとしている。ヒクヒクと弾かれる指は、顔を隠そうとするかのように絹子の目の前に出された掌の周りでうごめいて、松子夫人が止めさせようとしても止まらない。光る歯を覗かせる口は大きく開かれ、見開いた目は飛び出し、三毛は、まるで化け物だと思った。
もう美しい絹子という女はいない。そこにいるのは化け物だ。少年が目をギュッと閉じ、蹲り、精一杯体を抱いていた。
「なあに、これは」
悲鳴に混じって静かな声がする。
「何なの」
虚ろな目の繭子が、腕を広げてクルクルと回りながらロビーに大きく映し出される自分を見ていた。口元は、笑っているように見える。
『ええ、呼んだわ。あなたに会いたくて』
絹子がにっこり笑った。すると繭子も笑う。
『今日は馬鹿に素直だね。いつもはぶっきらぼうなのに』
『実はこの間の桜貝が欲しくて。くれると言ったでしょう』
『欲しいの。でももう無いんだ。この間言ってくれれば良かったのに』
繭子が悲しそうに沈みこんだ。絹子が不機嫌になる。
『なら良いわよ』
『絹子さん、仕方ないじゃない。城内さんが桜貝を持っていたのはこの間だもの』
今度は繭子が繭子に戻って絹子に向かって口を尖らせた。
「え……」
繭子は回るのを止めた。
『今頃になってそんなことを言うのは意地悪よ』
『繭子さんは優しいね。桜貝、大切にしてくれてる?』
今度は絹子が城内になって微笑む。繭子がそれに笑顔を返すと、また表情が変わり、絹子は絹子になる。
『いいのよ、本当は桜貝なんて。お母様の形見の真珠の方が素敵だもの』
「何よ、これは」
繭子が叫んだ。
「私達は何をやってるの」
「城内さんは、あれから一度も来なかったのよ」
松子夫人は頭を抱えてわめく絹子を抱いて、そう言った。繭子は手で目を覆う。
「来たわ」
「いえ、彼の父親はおそらく会社を辞めて、あなたのお父様と絶縁したのよ。だから彼はあの二回以降一度も来なかった」
「嘘よ」
繭子が手を下ろして怒鳴った。泣いてはいない。ただ青ざめている。恐怖の発作に襲われているのだ。
「だっていくら見ても城内さんはあの後一度も出てこないのよ。どこを見てもあなたたち二人が話しているだけ」
繭子がまたクルクルと回り始めた。壁には成長した姉妹が二人で芝生の庭にいる。
「嘘よ」
繭子が大きな目をうるませる。
絹子が繭子に近寄り、水色の着物の胸元から白いレースのハンカチを取り出した。
『絹子さんには内緒だよ』
絹子が微笑む。
『綺麗なハンケチね』
繭子が顔を輝かせてそれを受けとる。
『ただの贈り物じゃないよ。そのハンケチの隅をよく見て』
白の糸の刺繍がそこにある。
『え……』
『僕はまだ学生だから指輪はまだ無理だけど、これは婚約の証だよ』
『本当に?』
繭子が絹子に擦り寄る。絹子がまるで男のように繭子を抱き寄せる。
「そんな」
繭子が立ち止まる。
『絹子さんもいる?』
繭子が意地悪そうに言うと、絹子がふいと顔を反らした。繭子は赤く咲いた梅の枝を握っている。
『いらないわ』
『本当に』
『絹子さん、貰って置くべきよ。だってこんなに綺麗』
繭子が無造作に握っていた梅を大切そうに胸に寄せる。
『いらないんなら仕方ないよ』
絹子が乱暴な仕草をして皮肉な笑顔を作る。
「そんな」
『君を一生愛する』
絹子が繭子にささやく。
「そんな」
『君を一生愛する』
繭子が絹子にささやく。
「そんなことあるわけ無い」
涙が溢れる。
『君の手は小さいからさ、こういう旋律はどうだろう』
繭子が傍らでピアノを弾くと、座った絹子が真剣な顔で音をなぞった。
『いいじゃないか。これを繰り返して曲を作れば、君は堂々とピアノを弾けるようになるよ』
『本当に』
絹子が心配そうに尋ねると、繭子はニッと笑った。
『大丈夫。繭子さんにも負けないよ』
おとなしくなった絹子が、しゃがんだままヒックと喉を鳴らした。繭子がそこにツカツカと歩いていった。
「どういうことなの、絹子さん。あなた、何をやったの。私に何かしたの」
繭子が絹子に詰め寄る。今までの繭子と絹子の関係は崩れてしまったようだった。
「私は……知らないわ。知らない……」
絹子が小さな声でうめいた。