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砂糖細工の船に乗って  作者: 酒田青
第二章 子供
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子供…船の底・5

『ねえ、絹子さん。私達にフランス語を教えて下さらない。私、卒業後は婚約者とフランスに行きますの。だけど私の成績ときたら――』

『落第寸前なのよね』

 もう一人の女学生が後を続けると、更に大きな笑いの波が起こった。

『そこまで酷くないわよ。でも、やや酷いことは確かだわ。ねえ、絹子さん――』

『ねえ』

 絹子が静かに言うと、笑いがスッと収まった。

『あなたたち、煩いわ』

 しんと静かになった。

『あなたたちのお勉強がお粗末だっていうのは分かったわ。ところで』

 女学生の一人がカッと何かを言おうとした。

『あなたたち、誰』

 女学生達は呆然とした。

『……酷い』

『絹子さん、あなたどういうつもりよ』

『ごめんなさい。私、人の顔を覚えるのが苦手なの』

 絹子が笑った。繭子はオロオロと泣きそうになりながら両者を交互に見た。

『最低。あなた偉そうよ。前々から思っていたけど、実際話してみてやっと分かったわ』

『そうよ。あなた、失礼な人ね』

『ちょっと繭子さん、席を外してくださる。私達、絹子さんに前々から言おうとしてたことがあるの』

『あの、皆さん、許してください。姉は本当は優しいの』

 繭子が目を充血させながら言った。その時男の声がした。

『君達、周りの人に迷惑だよ。騒ぐなら店の外に出るんだね』

 人好きのする顔立ちの男が、絹子と彼女たちの間に入った。学生服を着た彼は、女学生たちに言った。

『さあ、出て行って』

『どうして私達だけ』

『あー、僕は彼女に用があるから』

 そう言うと、男は彼女達をなかば無理矢理追い出した。外に出た女学生達の不満そうな呟きが聞こえてくる。

『じゃあね』

 男は入り口の小さな階段を降りて、絹子たちの所にやって来た。繭子は何があったのか分からないと言う様子だが、絹子は疑い深げに彼を見つめていた。

『ありがとうございます』

 繭子が言うと、彼は頭を掻いて照れた。

『いや、実は本当に用があって』

『何ですか』

『僕は、いつもここに来ているんだけど、よく君達を見掛けるんだ。気になってて――』

『あなたとお友達になれって言うの』

 絹子が言った。目は冷たい。男がたじろいだ。

『えーっと』

『今まで沢山の人がそう言ってきたから分かるわ』

『まあ、そういうこと』

 男はにっこりと笑った。

『私は結構よ』

 絹子はサッと立ち上がって歩き出した。男が呆然とした。繭子は慌てて付き従った。

『手紙もいらないわ』

 ドアの前で絹子は言った。手紙を握った男は、周りの好奇の視線に惨めに顔を歪めた。

『さようなら』

 ドアは閉じた。

 

「あなたはどうしてこんなに冷たいの」

 絹子は松子夫人の質問を無視した。

「周りの人間を傷付けてまで、あなたが守ろうとしたものは何」

「うるさいわ」

 三毛がにゃあんと鳴いた。また新しい絵が現れた。

 

『絹子さん。どうしてそんなにその絵本が好きなの』

 幼い姉妹の居室だ。絹子がワンピースの裾を乱さない綺麗な格好で床に座って、熱心にあの絵本を読んでいた。

『読んでるとね、心が晴れやかになるのよ』

『そう? 私は何だか悲しくなるわ』

『私は悲しくなくなるの』

 絹子がポツリと呟いた。繭子が目を瞬いた。

『いつもは悲しいの、絹子さん』

『悲しいの。私はいつも一人ぼっちなのよ』

『私がいても一人ぼっちなの』

『あなたは少し特別。でもやっぱり』

 絹子が喉を鳴らした。

『私はずっと一人ぼっちなの』

 

「止めて」

 絹子がうめいた。

「止めなさい」

「止まらないわ」

 松子夫人が言った。

「なら出ていきなさいよ、覗き屋!」

 絹子が初めて松子夫人の前で表情を崩した。怒り狂っているが、どこか悲しい目をしている。絹子がつかつかと松子夫人に掴みかかる。

「止めて、絹子さん。ここに言って調べるように頼んだのは私なの」

 繭子が二人の間に割り込んだ。絹子が繭子を睨む。

「どうしてこんな女にこんなものを見せるの」

「私は本当のことを知りたかっただけなの。城内さんのこと」

「ならこんなものを私に見せる必要なんか無いじゃない」

「それは」

「いえ、必要よ」

 松子夫人が絹子をにらみつけた。

「絹子さんや繭子さんが城内さんのことで争ったことと、絹子さんの生き方は強く関わっているから」

 絹子がビクンと肩を震わせた。

「なら、早く見せなさいよ」

「え」

「見せればいいわ。こんなものを見ているよりそっちを見る方がよっぽどましよ」

「良いのね」

 松子夫人が念を押すと、絹子は頷いた。

「早くしなさい」

「じゃあ、そうするわ」

 松子夫人はまた違う容器を手に取った。陶器の丸い蓋をそっと開ける。

「あ」

 繭子が声を上げた。何かがそこから勢いよく飛び出した。驚いた三毛はそれを追い掛けた。「色」が逃げる。姉妹の部屋のドアの外に、色が生き物のように逃げていく。

 ドアにぶつかると、三毛は少年を呼んだ。体を労ることも忘れて素早く駆け付けた少年がドアノブを回す。

 白い廊下に出ると、色は猫の形になっていた。まだら模様の顔をちらりと三毛達に見せてから、俊敏に走っていく。三毛と少年がそれを追い掛け、松子夫人と繭子が後を追う。

「おかしいわ。さっきはこんなことなかったのに」

 松子夫人が息を切らしながら独り言を言ったのを聞いて、三毛は、記憶の猫は絹子から逃げているのだ、と思った。猫は部屋に残った絹子から離れようと懸命に走っている。

 いや。三毛は思った。絹子が恐れているのだ。あの記憶を蘇らせることを。

 猫はロビーに出た。三毛は妖怪じみた生き物を捕えようと、硝子戸まで真っ直ぐに追い立てた。

 硝子戸にすがりついた生き物は、後ろを振り向いて威嚇した。三毛はビクンと後ずさった。猫の顔がのっぺらぼうになっていた。ぐにゃぐにゃと顔は形を変え、やがて絹子の顔になった。

「見ないで」

 泣きそうな顔をした絹子の顔がそう言うと、パン、と鳴って猫は破裂した。色が水風船が落ちたときのようにロビー全体に飛び散る。硝子戸に、壁に、天井に、床に、真っ白なテーブルセットの群れに。

 三毛はパニックを起こして逃げ惑った。これがただの色だということはさっきから分かっていたはずなのに、キュルキュルという凝縮された音を聞くと何故か恐ろしくなった。

 三毛は、散った色が白いロビーにじわじわと染み込んでいくのをただ見つめていた。少年も呆然として動かなかった。松子夫人と繭子がたどり着いた。繭子はぼんやりと高い壁を見つめている。

 

『こんにちは。何をしてるの』

 広い壁に浅黒い肌の少年が映っていた。日本人離れした、当世風の顔立ちだ。その少年が絹子と繭子の先程の部屋の入り口に立っている。

 

「城内さん……」

 繭子が呟いた。後ろから、青ざめた絹子がゆっくりと歩いてくる。


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