子供…船の底・4
『繭子さん、一緒に帰りましょう。私のお家にいらして』
丸顔の少女が手を差し出した。
『ええ、あの、私は』
髪を長くしなやかなみつ編みに結った繭子は言いよどんでいた。女学校時代なのか、背が少し高くなっている。場所は木造の校舎の中だ。
『何か用事でもあって?』
『いいえ、私、姉が』
『絹子さん? いいじゃない。あなたいつもお姉さんとばかりいるけど、それじゃあつまらないでしょう』
相手が不満を露にすると、繭子はますますへどもどした。
『絹子さん、皆に嫌われていてよ。あの方意地悪だわ』
途端に、繭子の目がじわっと赤くなった。
『そんなこと……』
『でもあなたはとても好かれていてよ。美しいし、西洋人形のようですって。私もあなたが好きなのよ。御姫様のようだもの。ねえ、お姉さんのことは忘れて、私達ともっと……』
『帰りましょうか、繭子さん。小椋が車で待ちかねているわよ』
すぐ側に絹子が立っていた。相手の少女がハッと顔色を変えた。一瞬バツの悪そうな顔をしたが、すぐに開き直った。
『繭子さんのお姉さん。私達今話していたの。繭子さんは付き合いが悪いけど、それはお姉さんのせいねって』
『私、そんなこと……』
繭子がますます焦った。
『絹子さん、あなた評判がよろしくありませんわ。繭子さんをもっと自由にして差し上げて。いつも自分にはべらせて、人から遠ざけて、繭子さんが可愛そうだわ。ねえ、繭子さん――』
『小椋が来たわ。行くわよ』
絹子が繭子の手をそっと握り、優雅に歩き出した。少女などまるで初めから存在していなかったかのように。
繭子は慌てて絹子に従い、どうしていいのか分からないかのように赤い顔を少女に向けた。少女は呆然としていたが、控え目に手を振る繭子にポツンと、
『さよなら』
と答えた。繭子は悲しそうに目を伏せ、迎えの車へと走った。
『あんなに醜い人と話しては駄目よ。あなたまで下卑て見えるわ』
車の中で絹子は超然とした態度で言った。繭子は体をちぢこめた。絹子が苛立つ。
『……何? 何か言うのならもっと大きな声で言ってちょうだい』
『絹子さん、どうして私を独占しようとするの』
『独占?』
『そうよ。どうして私にお友達を作らせて下さらないの』
『さっきの方に何か吹き込まれたの。影響されやすい人ね』
『からかわないで。本気よ。どうしてあの方を邪険にしたの。私が誰かの家に遊びに行って、何が不都合なの』
すると絹子はふう、と溜め息を吐いた。
『あのね、私はあなたにふさわしいお友達があったなら認めるわ。あなたみたいに美しくて、才能があって、優雅な方に似合う人』
『そんなに大した人間じゃないわ。私はただの子供よ。平凡な』
『何を言うの。ほら、ご覧なさい』
絹子は革の鞄を探ると、何か紙の塊をバラバラと落とした。
『何』
『あなたに宛てた恋文よ。よく門の前で渡されるの。ほら、これは一高生の手紙だわ。字が綺麗ね。あなたに恋する人がこんなにいるのに、あなたは自分を否定するの』
繭子は車の端で真っ赤になった。手紙の山から目をそらす。
『いらないの。なら捨てるわ。小椋』
『はい』
『車を停めて』
『承知いたしました』
キキイ、と不愉快なブレーキ音がして、黒い車が停まった。
『止めて!』
開いたドアからパラパラと風に乗って手紙が舞う。絹子が一つ一つ引き裂いている。
『気の毒じゃないの。止めて』
『あら、でも子の人たち皆、不合格なのよ』
『不合格?』
『ええ、野暮ったかったり醜かったり店屋の小僧だったり。手紙の内容を見ても賢いとは言いがたいわ。あなたにはふさわしくない。だから不合格よ』
『いい加減にして!』
車が動きだした。
『何を』
『私を管理するのは止めて! 私は自分でお付き合いする相手を決めるわ。絹子さん、あなた変だわ。私にはとっても優しいのに、どうして他の人にそうしないの』
『それは簡単よ』
『え』
絹子は一枚だけ残った手紙を大切そうに撫でた。
『皆が私にふさわしくないから。全員つまらない人間だわ。あなたと、あと一人を除いてね』
絹子がそれを差し出した。
『城内さんから』
繭子の顔が燃えるように赤くなった。震える手でそれを受けとる。
『この手紙は合格』
絹子が満足げに笑った。
『あなたもそう思っているんでしょう?』
彩り鮮やかなペンキをぶちまけたような部屋の中で、三毛はしんと蹲っていた。繭子は居心地悪げに壁を見つめていた。松子夫人がテーブルの上を顔をしかめて探り、絹子は無表情にそれをにらんでいた。
「こんなものを見せて、どうするつもり」
絹子が低い声で言った。松子夫人が息を漏らす。
「笑ったわね。何を笑うの、あなたふぜいが」
「あら、私は不合格なのね」
「当然よ」
「でもあれを見て恥ずかしくなったんじゃありませんか」
「どうして、私が」
絹子が目をそらした。
「あなたの生き方は果たして正解だった? 正解なら、どうして船の中にいるのかしら」
「この――」
「卑女? もう既に聞いたわよ。あなたの影響力って多大ね」
繭子が慌てたように顔をそらした。
「そうよ。あなたは卑女。私は選ぶ立場にあるの。私は特別だから」
「あの絵本」
「え」
「どうしてあなたにあれほどの影響力を持っていたのかしら」
場面が移り変わる。
絹子が着飾った女中を引き連れて大きな店の中を歩く。時折ハンカチや西洋の髪飾りの前に立ち止まって微笑む。
「あれは、私が絹子さんにもらったものだわ」
繭子が呟く。
『お客様、お似合いですよ。その品は――』
『すぐに包んで頂戴。説明は必要ないわ』
当たり前のように絹子は言い放つ。きらびやかな靴や反物や装飾品の輝きに満ちた店内で、その中年の店員は一瞬傷付いたような顔をした。
『父に付けておいて』
絹子はそれにも構わず平然と歩いていった。
「あなたっていつもこんな態度なの」
松子夫人が微笑みながら尋ねる。絹子は眉をピクリと上げる。
「当然よ」
『すごいわ、絹子さん。フランス語は満点ですって』
学生がたむろするカフェの中に、絹子と繭子がいた。絹子は何も聞いていないかのような態度で、それとは対照的に繭子は興味しんしんに話を聞いている。話しているのは女学生の一団だ。
『絹子さん、満点ですって』
繭子は誇らしげに顔を輝かせている。女学生の一人が陽気に言う。
『びっくりしたわ。教員室の前に貼り出されていたの。あなた総合で一位よ』
『信じられないわ。私そんな成績取ったことが無い』
『当たり前よ。私たちごときが絹子さんのようにフランス語の発音を出来て。あのRの音、ガアガアって音』
『あなた下手ね』
『うるさいわね』
女学生が皆で笑いさざめく。繭子も笑う。